取り入れられた理由とは
神武天皇から始まる皇統譜の古い系譜部分をにわかには信用できない。なぜなら、『魏志』倭人伝に記載された女王卑弥呼と女王台与が皇統譜から排除されているからである。
『日本書紀』の編者は神功皇后の事績の一部に倭人伝の記事を註記の形で挿入し、皇后と倭の女王の対比を試みている。これは、ヤマト王権の歴史上、中国の正史で実在が明らかな女王卑弥呼の存在を軽視できなかったことを物語る。
しかし、神功はあくまで「女王」ではなく、「皇后」でなければならなかった。女王制は男王の統治とは原理が異なる。父子直系主義による皇統の統治を日本の起源とする上で、ヒメ・ヒコ制(兄妹・姉弟のペアによる首長制の組織)にもとづく女王制が前史として存在したことを認めるわけにはいかなかったのだ。
だが、記・紀の中には「女王制の終焉」を思わせるエピソードが残されていた。以下に、順を追って説明したい。
継体王朝の始祖は応神ではなく「ホムツワケ王」だった
『古事記』中巻に収まる応神までの15代は、実在性に問題のある天皇群である。
6世紀初頭に畿外から擁立された継体天皇の先祖について、記・紀は応神天皇だと公言している。応神の子、仁徳天皇の後裔血脈が6世紀初め頃に途絶えたので、継体の始祖を聖帝応神天皇に結びつける系譜が新たに作られ、欽明朝の「帝紀・旧辞」に記載されたようである。
ところが、記・紀と同じ頃の成立とされる『上宮記』一云の伝承記事では、継体の先祖として「凡牟都和希王」の名を伝えている。多くの研究者はこの人物を「ホムタワケ王」すなわち応神天皇と同一人物とみなしている。しかし、「都」はツと読むべきであり、「ホムツワケ王」となる。
ホムツワケ王は記・紀で第11代垂仁天皇の皇子として描かれており、母后はサホヒメとされている。ホムタワケ王(応神)とは別の人格であり、こちらが実在の始祖王であったのではないか。
垂仁天皇の皇后サホヒメとその兄サホヒコ王にまつわる伝承は、兄妹が天下の乗っ取りを図り天皇の暗殺を企てるも失敗するという話である。この話は、ヒメ・ヒコ制から男王制への転換を暗示していると考えられる。