憲法十七条や冠位十二階だけでなく、当時、東アジアで超大国と仰がれた隋帝国との外交、すなわち遣隋使も太子の企画・立案に成るとする見方が根強い。『日本書紀』はこれが太子の事績とは明記していない。だが、前に述べたように、太子が飛鳥に較べて難波へのアクセスのよい斑鳩に新たな拠点を築いたことを考えれば、彼が中国や朝鮮半島との外交を一任されており、遣隋使外交を中心となって推し進めたのが太子自身であったとみなすことは十分に可能であろう。
遣隋使による外交は、倭国とよばれた当時の日本が朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)の上位にあることを隋の皇帝に承認してもらうのがねらいだった。それは、倭国が鉄資源などを入手していた朝鮮南部にあった伽耶(現在の韓国慶尚南道)のなかの一国、任那からの貢納を確保するためにほかならなかった。
太子の時代、任那を含め伽耶は新羅の支配下にあり、倭国としては新羅に圧力を掛けて任那からの貢納を確保しようとしたが、新羅がそれに応じないという現実に直面していた。それを打開するためには、新羅が臣下として従属する隋の皇帝に働きかけ、新羅がすすんで倭国に対し任那からの貢納を差し出すように仕向けるよりほかになかったわけである。
聖徳太子は隋に対し、倭国が朝鮮三国とは異なり、隋に朝貢はするけれども官職や爵位を授けられて臣下となる道は取らないという独自の立場をアピールした。倭国王を「日出処の天子」と称し、「日没処の天子」たる隋の皇帝と、いわば対等の関係にあるとしたのはそのためであった。