魔王と恐れられた織田信長は天才的な才能の持ち主で、その才覚を駆使して天下統一を目指したというイメージがある。ところが、実はそうでもない。
信長の意外な名言に隠された覇王の素顔を伺うことができる。歴史研究家の渡邊大門氏がその名言を解説してくれた(『歴史人』2018年1月号「戦国武将の乱世を生き抜く名言12」より)。  嗜(たしな)みの武辺は
  生まれながらの
  武辺に勝れり  織田信長

 織田信長と言えば、天賦の才を持つ革命児と思いがちではあるが決してそうではない。この言葉は、日頃から鍛錬を積んだ武辺(※「武辺」とは戦で勇敢に戦うこと)は、生まれながらの才能ある者の武辺よりも勝っているという意味になろう。つまり、いくら天才的な才能を持っていても、日頃の鍛錬を欠かしてしまってはいけないということだ。逆にいえば、未熟なものでも熱心に鍛錬すれば、才能ある者を超えることができるということになろう。

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信長は意外と「努力家」だった。「美しくやさしい国史物語」(国立国会図書館)

 若い頃の信長には、いささか悪いイメージがある。服装は乱れ、まるで町のごろつきのような感じだった。ただ、何も信長は不良よろしく、遊びに熱中していたわけではない。日夜、信長は兵法を学び、来るべき合戦に備えていた。また、馬の稽古、弓矢、鉄砲、鷹狩など武道の修練に時間を費やしていた。

鷹狩は遊びのように思えるが、決してそうではない。戦闘の実戦的な感覚を養うのに最適だった。水泳にも力を入れていたという。こうして信長は、のちに開花する戦術眼を磨いていった。

 

 たとえば、信長は長い槍を用いたことで知られている。当時、槍の長さは二間半(約4.5メートル)が主流だった。しかし、信長は三間から三間半(約5.4~6.3メートル)を使うよう指示した。槍は長くなるほど重くなり、使いこなすのが難しくなる。信長は槍で相手を突き刺すのではなく、叩くことを命じたという。長い槍を用いることは、常識を覆す発想の転換といえるのかもしれない。

 このように日頃の鍛錬を欠かさなかった信長には、歴史に残る合戦がいくつかある。永禄3年(1560)の桶狭間合戦では、信長は寡兵を率い、今川義元の大軍を討ち破った。

当日は雨が降っており、今川軍の油断を突いたものだった。また、天正3年(1575)の長篠の戦いでは、鉄炮を用いて最強と言われた武田軍に勝利を得た。このように、信長は日頃から努力を怠らなかったため、数々の戦いで勝利を得たのだ。

『歴史人』2018年1月号「戦国武将の乱世を生き抜く名言12」より〉

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