6世紀~7世紀前半に中国に出現した強大な随・唐に対抗するべく、日本は中国の律令法を学び、天皇中心のまとまった国にすることが急務となった。天皇の権威と権力を高めた3天皇の政治手腕に迫る(連載第2回目)。
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天智天皇を支えた天武天皇が眠る、野口王墓古墳。乙巳の変で蘇我氏を暗殺した本当の理由とは?

 天智天皇は、舒明天皇(田村皇子)と皇極(斉明)天皇(宝皇女)との間に生まれた。それは推古34年(626)のこととされる。天智の実名は葛城といった。それは有力な豪族、葛城氏出身の女性を乳母として育てられたことによる。

 有名な中大兄は通称で、大兄とは同じ母から生まれた兄弟のうち最年長の男子を指す。この時代、同母兄弟中の最年長の皇子に皇位継承の優先権がみとめられていた。天智は若くして将来天皇になることが約束されていたのである。
 そのためであろう、彼は祖父にあたる押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の子)から押坂部とよばれる膨大な数の私有民を相続していた。まだ天皇になっていないのに、天皇に引けを取らないほどの経済力をもっていたといえよう。
 しかし、当時は血統だけでなく天皇となる人物の年齢や経験・実績も評価されたから、父舒明が亡くなった後、天智が直ちに即位するわけにはいかなかった。推古天皇(額田部皇女)の前例にならい、舒明の皇后だった母皇極が即位することになったのはそのためである。

 その皇極の在位4年目(645)の6月、当時宮廷内で最大の権勢を誇っていた蘇我蝦夷・入鹿父子が倒されるという政変が起きた。これが乙巳の変である。
 天智がこの政変に加担したことは明らかで、彼は飛鳥板蓋宮の内部で入鹿に斬りかかり、さらに蝦夷を討ち取るために陣頭指揮を取った。彼は若くして軍事的な才幹を評価されていたのだろう。

 

『日本書紀』は、蘇我氏が天皇家に取って代わろうとしたので滅ぼされたとするが、これは史実としては疑わしい。蝦夷・入鹿は、中国の唐が朝鮮三国のひとつ、高句麗に侵攻するという軍事的緊張が高まるなか、あくまで国内の主導権をめぐる権力闘争に敗れ去ったにすぎない。
 乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたのは孝徳天皇(軽皇子)を中心とした勢力であった。天智は孝徳の甥に当たり、彼はこの叔父を天皇にするために政変に加わったと見られる。

 孝徳の政権が行った一大改革がいわゆる大化の改新である。『日本書紀』を読む限り、天智が改革に主体的に関わったという痕跡は見いだしがたい。当時、天皇には軍事的な指揮能力がもとめられていたこともあって、天智は孝徳政権の軍事部門を統括していたようである。
 たとえば、大化元年(645)9月、天智の異母兄で蘇我氏と親しかった古人大兄皇子が謀反の容疑で討たれるが、その指揮を取ったのは天智であった。

また、大化5年(649)3月には、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が謀反の容疑を受け自殺した。この時、謀反の密告は最初天智に通報されている。
 軍事を統括する天智を一貫して輔佐したのが中臣鎌足(のちの藤原鎌足)であった。鎌足は「軍国」に奉仕する軍事官僚としての生涯を歩んだといえよう。

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