有馬温泉の人気は湯女に依るところが大きかったが、ここがそのまま遊廓として確立することはなかった。理由はいくつかあったが、皮肉にもあまりの人気に、湯女が遊女として客の相手をする余裕がなかったことが大きかったようだ。
その湯女風呂が一躍脚光を浴びたのは約400年後の天正19年(1591)、徳川家康の江戸入府の翌年であった。この年、江戸で初めての銭湯が開業。さらに湯女風呂も盛んになっていったことが、江戸初期の『慶長見聞集』という読み物に記されている。
家康が入府した頃の江戸は、田舎の小さな町に過ぎなかった。そこで家康は手始めに江戸城の増築を始めた。そのため大勢の人夫が集まり、それを目当てにした飲食店や長屋、さらには私娼も出没していた。そんな環境があったから
銭湯も進出してきたのだ。
江戸の工事ラッシュはその後も続いた。
「というのも工事関係者は男ばかり。しかも戦国の気風が残って殺伐としていたため、殺傷事件も後を絶たなかったのです。そのような物騒な町だったことから、商家の奉公人もすべて男性で賄われていました。極端に男性の比率が高いことから、湯女風呂は、男たちのガス抜きのために欠かせない存在でした」と下川さん。
江戸時代の銭湯は朝から沸かしていて、暮六つ(午後6時頃)の合図で終わる。湯女たちは昼は客の背中を流し、夕方を境に三味線を手に遊客をもてなした。『慶長見聞集』には「容色たぐひなく、こころざまゆふにやさしき女房ども、湯よ茶よと云ひて持ちきたり、(略)百のこびをなして男のこころをまよはす」とある。この記述から湯女は、すでに遊女と見なされていたと考えられる。
1630年代になると湯女風呂は、幕府公認で今の日本橋人形町界隈に開設されていた吉原遊廓を凌ぐ人気となっていた。寛永17年(1640)に吉原が暮六つ以降の夜間営業を禁じられたことも拍車をかけた。湯女風呂も営業時間は暮六つまでだったが、それはあくまで風呂に火を入れている時間。以降は簡易遊廓として営業を続けていたことで、大層な人気を博したのだ。
〈雑誌『一個人』2月号より構成〉