いまも語り継がれる哲学者たちの言葉。自分たちには遠く及ぶことのない天才……そんなイメージがある。
そんな「哲学者」はいかに生き、どのような日常を過ごしたのか? 奔放なイメージのある「快楽主義」その実とは。

前回まではこちら『「ストイック」な男が出会った「奇行」を取る師~ストア派創始者・ゼノンのルーツ』

「ストイック」語源派と同時代に生まれた

「快楽主義」といえば、豪華な食事をたらふく食べて、きらびやかなファッションに身を包み、奔放な性的交遊をするような、頽廃的で刹那的な生き方がイメージされるだろう。

 英語の「エピキュリアン」という言葉は「快楽主義者」「美食家」を意味する言葉である。この言葉は、快楽主義の哲学を論じた古代ギリシアの哲学者エピクロスが創設した「エピクロス派」が語源となっている。

 エピクロスの哲学は、「ストイック(=禁欲的)」という言葉の語源となったストア派哲学と同時代の哲学であり、ライバルでもあった。多くの宗教では快楽主義を批判して禁欲主義を推奨しているし、倫理的な感覚からすれば快楽を追求して生きるよりも禁欲的に生きたほうが正しいように思えるだろう。そのため、同時代のギリシアでもその後のローマの時代でも、エピクロスの哲学は哲学者たちの罵倒や嘲笑の対象になることが多かった。

 だが、エピクロスが論じた快楽主義とは、実際にはむしろ節制的な考え方であり、エピクロス自身の生き方も質素なものだった。

 エピクロスは、アレクサンドロス大王が即位する少し前の紀元前341年に生まれた。いまから約2300年以上前のことである。出身地はアテネからエーゲ海を挟んだイオニア地方の島、サモス島で、父親はアテネの屯田兵としてこの地に赴いていた。

 当時のアテネでは、屯田兵とは貧しく困窮した者が就く地位だったため身分が低く、赴任先でも現地人の反発にさらされることが多かった。

父親は現地で子どもたちに読み書きを教える教師の仕事に就いたが、当時のギリシアでは教師は軽蔑される職業とされていた。

 これらのことから、エピクロスの家庭は貧しい生活を送っていたことが推測される。

 政治や社会と一線を画す哲学教育

 それでも、エピクロスは少年時代から哲学を学び、18歳の時に父親の故郷アテネに渡って軍役に就いた。ちょうどこの年、アレクサンドロス大王が急死し、後継者を巡る争いや権力の空白を埋める戦いから、アテネも騒乱に巻き込まれる。エピクロスも一兵士として、戦いを目の当たりにしたことだろう。その一方でアテネに滞在したこの時期に、アカデメイアやリュケイオンといった学園で、プラトンアリストテレスの後継者の哲学を学ぶ機会も得ていた。

 軍役を終えた後、エピクロスは両親と共にエーゲ海沿いの小アジアの都市を転々と移り住み、現地の哲学者たちと論争を続けた。そんな生活を送る中で、いつしか彼の周りには信奉者が集まるようになっていく。

 

 35歳の時、エピクロスはアテネ郊外に土地を買い、弟子達と共に移り住んだ。その土地は、アテネの城壁からプラトンが創設した学園アカデメイアへと続く道沿いにあった。エピクロスはそこに住居と庭園を作り、弟子達と一緒に共同生活を営みながら、哲学の研究と執筆活動に勤しんだのである。 

 当時の哲学教育は実践的なものを目指し、国家の政治に積極的に関わろうとする政治的な色彩が濃いものが一般的だった。

だが、エピクロスと弟子達は「庭園」に引きこもったまま政治や社会とは一切関わろうとしなかった。これは俗世間の浮き沈みから身を引き、個人の内面における心の平静を至上の快楽とするエピクロスの思想を体現したものである。幼少期から世間に蔑まれ続け、動乱の時代の混乱を目の当たりにした結果、世間から隠遁する生き方を選んだのだろう。残されたエピクロスの言葉の断片の中には「隠れて生きよ」というものもある。

性愛に耽り美食を堪能する?
「快楽主義」の祖が作った秘密の庭園。好奇の目で見られた日常の画像はこちら >>
 

 エピクロスは弟子入りを希望する者に対して男女分け隔てなく受け入れたし、「庭園」の中では奴隷に対しても平等に教育を施していたのだが、世間はこの「庭園」を好奇の目で見ていた。弟子入りした女性の中には娼婦だった者も少なくなく、そうしたさまざまな出自の男女が閉ざされた庭園にある一つの建物で共同生活を営み、快楽主義の哲学を探究していることが、理由となったのだろう。

 他の学派の哲学者、とりわけ対立する思想を奉じるストア派の哲学者たちは、エピクロスについて有る事無い事を吹聴し、中傷した。ある者はエピクロスが性愛に耽り猥談ばかりしていると言い、ある者は彼が美食のために日に二度嘔吐していたと言い、またある者は他の哲学者の悪口ばかり聴いたと証言した。
 だが、実際のエピクロスと弟子達は、水とパンだけの食事をとり、酒もほとんど飲まないような質素な食生活を送っていた。チーズの小壷が一つあればこの上なく豪華な生活ができると考えていたほどである。
 「性交が人の利益となることはなく、もしそれが害を加えなかったならばそれだけで満足すべきである」というような言葉からは、過剰な性愛は害悪だと考えていたことがわかる。

 そもそも、エピクロスが自らの哲学の根本に置いた「快楽」とは何なのか。

それは、飢えや渇きといった、生きていく中で生じる欠乏への欲望を満たしたうえで、それ以上の不必要な欲望に心が乱されることなく、静穏な心の状態(アタラクシア)に至った時に得られる「魂の快楽」である。
 だから、空腹を満たし喉の渇きを潤すのに足りるだけの食物と水を摂るだけで十分であり、豪華な美食に耽ったり、酒宴やどんちゃん騒ぎを繰り返したり、権力や名誉を得たり、性的交わりを重ねたりすることは、むしろ不必要な欲望に心がかき乱されていて、真の快楽が得られるどころか、苦しめられている状態なのである。

エピクロスにあった禁欲主義

 こういったエピクロスの考え方は、実際には対立するストア派の禁欲主義に通ずるところもあるのではないだろうか。ストア派が目標とするのも、理性によって心の動揺を制御することで心の平静(アパテイア)を得ることであり、欲望によって心がかき乱されないような生き方をすることだからである。

 

 エピクロスは若い頃から身体が弱く病弱で、車椅子に乗って「庭園」の中を移動していた。それでも70歳まで生きながらえたのだから、かなりの節制を心がけていたのだろう。
 だが、最期は腎臓結石を患い、二週間ものあいだ激痛に苦しんで亡くなった。死の間際に書いた友人宛ての手紙に、次のような言葉が残されている。
 「わたしの生涯最後の日でもある、この祝福された日を迎えながら、わたしは君に次のことを書き記しておく。排尿の困難や赤痢の症状は相変わらず続いており、その度を超えた苦痛は去らないでいる。しかしわたしは、君とこれまでに交わした対話を想い起すことで、魂における喜びをこれらすべての苦痛に対抗させているのです」

 エピクロスは死後の世界や転生があるとは考えず、死とは快楽と苦痛を感じる感覚が消失することと考えていた。自分に死が訪れる時、自らの感覚は消失しているのだから、何も感じなくなっている。

だから、恐れることも何もないというのが死に対するエピクロスの考えである。むしろ、腎臓結石の激痛から解放されることを喜ばしく思ってさえいたのだろう。こうして彼は、最期まで心の平静を保ち、魂の快楽の中で人生を終えたのである。

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