平氏に持ち去られた三種の神器は、一体どうなったのであろうか。
都落ちした平氏一門と安徳天皇らは、西国を目指して再起を期している。しかし、平氏は一の谷合戦で敗れると、次に戦いの舞台を屋島に移した。ここでも平氏は敗北し、壇ノ浦へと落ち延びた。壇ノ浦の合戦が行われたのは、元暦2年(1185)3月24日のことである。
壇ノ浦の合戦が始まると、平氏は不利な戦いを強いられた。いよいよ敗北という段になって、安徳天皇祖母の二位尼が宝剣を持って入水し、続いて侍女の按察局が天皇を抱えて入水したのである。
神璽の箱については、海上に浮かんでいるところを確保することができた。神璽と鏡については、幸いにして何とか確保したのである。しかし、宝剣が海底に沈んで戻らなかったことは、大変な問題となった。
追討の先頭に立った源義経は、西国へ出立する前に後白河に召され、三種の神器を無事京都に持ち帰るよう命じられている(『源平盛衰記』)。
翌月11日、鎌倉の源頼朝のもとに、義経からの一巻記(報告書)が届けられた(『吾妻鏡』)。一巻記の冒頭には、安徳天皇の入水が記されており、末尾には宝剣のみが戻らなかったことが書き留められていた。
頼朝は部下が読み上げるのを聞いた後、声を発することができなかったという。一方の義経も、反省の思いを禁じえなかった。義経は宇佐神宮に願文を奉じ、もし宝剣が見つかったならば、宣旨を下し神位を寄進すると述べている。
かくして宝剣の探索は、絶対的な至上命令となる。大海で宝剣を探し出すことは、極めて困難を伴う作業であった。しかし朝廷は、執念で探し出そうとした。
壇ノ浦における宝剣探索を命じられたのは、厳島神社の神主である佐伯景弘だった。景弘が探索を命じられたのは、壇ノ浦の合戦のときに宝剣の沈んだ場所を知っているからという理由であった(『百練抄』)。
文治3年(1187)7月20日、景弘は宝剣求使に任じられると、現地へ向かい、海人に宝剣の探索にあたらせた。しかし、探索から2ヶ月後、帰京した景弘の報告は思うようなものでなかった。探索に同行した神祇官、陰陽寮も、宝剣発見の期待を卜占に託すのみであった。
結局、宝剣探索は失敗に終わったが、後鳥羽の執念は衰えず、25年後の建暦2年(1212)に最後の宝剣探索を行っている。だが、発見に至らなかったことは、言うまでもない。