◆時代を超えて読まれる小説は「冒頭の文章」が素晴らしい
文豪が書いた名作、冒頭文を知っていますか? その名人技の数々...の画像はこちら >>

 発売中の『一個人』4月号で「名作の生まれた宿で文豪の素顔に迫る。」という記事を担当した。9人の文豪に関する原稿を書くにあたって、久しぶりに近代文学・現代文学の小説を駆け足で読んでみた。

読後に改めて思ったのは、小説は出だしの文章が大事だということである。

 冒頭の文章といえば、私にとっては古典文学だ。『枕草子』の「春はあけぼの…」、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり…」、そのほかにも『徒然草』、『方丈記』、『奥の細道』など、学生時代は古典文学の冒頭の文章を暗記したものである。
 中でも好きだったのは『源氏物語』。「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが…」である。現代人からすると難解にして早口言葉のようで、声に出して読むのが快感だった。『土佐日記』の「男もすなる日記といふものを 女もしてみむとてするなり」は、現代文を書くときにも応用できる、文章家必携の名文だ。海外に目を転じれば、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』の出だしも忘れがたい。

 いずれにしても名作と呼ばれ時代を超えて残った小説は、冒頭の文章が素晴らしい。それは、近代以降の小説にも当てはまる。今回の記事では、島崎藤村のページで、『夜明け前』の「木曽路はすべて山の中である。」という文章を記事の最初に引用した。記事では取り上げなかったが、他の作家の小説にも名文がある。

川端康成なら『雪国』の「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。」、あるいは太宰治なら『人間失格』の第一の手記。「恥の多い生涯を送って来ました。」。たった一つの文章で読んだ者に深い感銘を与える。まさに名人技である。

 ◆ライターにとっても出だしは重要

 冒頭の文章の重要性。実はこれ、私のライター稼業にも通じる真理である。文豪としがない雑誌ライターを比較するとはまことに恐れ多いが、雑誌の記事原稿もまた同じと思うのだ。言い方を変えれば、今や死語になってしまったダチョウ倶楽部の名言「つかみはOK!」だ。冒頭の文章で読者のハートを鷲掴みにすれば、名もなきライターの私の文章も最後まで読んでくれるのではないかと思っている。
 したがって、文章の出だし、イントロ部分をどう描くか、原稿を書くときに最も時間をかけて考えている。冒頭の文章が決まれば後は一気呵成に書き上げられる。出だしに我ながら名文と思えるような文章を思いつくと、後はスイスイと最後まで書けてしまう。


 気持ちよく仕事をして、編集者や読者に褒められるために、仕事を抱えている時はいつも冒頭の文章を考えている。その結果、日常生活でとんでもないポカをすることがしばしばある。電柱にぶつかる、キッチンで卵を割って器に入れる時に、間違えて生ごみ入れに黄身と白身を、器に卵の殻を入れてしまう、というようなドジはしょっちゅうやらかしている。私の日常生活を逐一追っかけたら、かなり変なヤツと思われるだろう。それもこれも突き詰めると、冒頭の文章のためなのだ。

 冒頭の文章について、もう一つ。駆け出しの頃に助言されたことがある。安易にコメントから始めるなと言われた。コメントは生きた言葉であり、それだけでインパクトがある。ついつい最初に使いたくなるものである。雑誌の記事を読むと、コメントから始まる文章はよく目にする。しかし、コメントに頼らないで自分で考えた地の文から入った方が、文章力を磨けるのではないか、という説だ。


 この考えでいうと、コメントだけでなく原作の文章を引用することも、似たようなもので、後の文章が楽に書ける。
「木曽路はすべて山の中である。」を今回使った時は正直迷った。それでもなお抗しがたい名文の魔力に負けてしまった。この名文から始めれば、私の拙い文章もちっとはマシになるような気がしたのである。島崎藤村さま、勝手に名文のおこぼれに預かりました。すいません。そして、ありがとうございました!

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