「火吹き達磨」の異名を持つ陸軍の生みの親を襲撃!
「火吹き達磨」の異名を持ち、「維新十傑(いしんじっけつ)」に数えられる日本陸軍の生みの親と言われる大村益次郎(おおむら・ますじろう)。医者から当代きっての一流の兵学者となり、幕末から明治維新にかけての諸戦で大いに活躍した益次郎は、京都で襲われた傷が原因で亡くなりました。その時の襲撃の主犯となったのが「神代直人(こうじろ・なおと)」という人物だったのです。
神代は長州藩の萩藩士の家に生まれました。詳しい生年月日については分かっていませんが、長州藩の交友関係を見ると、天保11年(1840年)前後に生まれた人物が多いので、神代もその頃に生まれたと考えられます。
父の神代一平は、萩藩内で中船頭という階級に属していた、いわゆる下級武士でした。普段は萩藩の三田尻(山口県防府市)に住み、仕事は船倉で船舶の操縦を行っていたそうです。
一平の嫡男として育った神代は、御楯隊(長州藩が他藩に先駆けて募兵によって編成した近代軍隊の一つ。中でも「奇兵隊」が有名)などに名前が見えることから、萩藩の直臣として、諸隊に積極的に参加したエネルギッシュな若者だったようです。
そして、その余りあるエネルギーは、過激な尊王攘夷思想(天皇を尊び外国を排除する思想)に結び付いていきました。
当時、長州藩には大楽源太郎(だいらく・げんたろう)という尊攘派の志士がいました。
源太郎は長州に戻ると「西山塾(せいざんじゅく)」(西山書屋)という私塾を開き、多くの門弟(もんてい)を抱えました。その教え子の一人が神代であり、他の教え子には、第18代内閣総理大臣の寺内正穀(てらうち・まさたけ)などもいました。
神代は源太郎の教えの下、「四国連合艦隊下関砲撃事件」で海外諸国と講和交渉を結んだ同じ長州藩の高杉晋作や伊藤博文の暗殺を企てるなど、過激な尊王攘夷派となっていきました。神代と同じく長州藩出身の大村益次郎は、医者の家に生まれ、福沢諭吉や橋本左内(はしもと・さない)らが学んだ緒方洪庵(おがた・こうあん)の適塾(てきじゅく=大阪大学医学部や慶應義塾大学の源流の一つ)で緒方洪庵から蘭学を学び、塾頭となりました。
その傍ら兵学を学んで兵法者として台頭していき、やがて長州藩の倒幕運動に参加します。「戊辰(ぼしん)戦争」で大いに軍略の才を発揮して、新政府軍を勝利に導きました。
明治維新後は新政府の重役となり、軍部のトップに就任して、軍制改革を行います。陸軍はフランスを倣い、海軍はイギリスを倣う改革を行い、藩兵を解体して国民皆兵を目指した「徴兵令」や、士族の帯刀を禁止する「廃刀令」などを推し進めようとしました。 軍制改革への反発
しかし、後に実施されるこれらの近代的な軍制改革を建白(けんぱく=政府や上役に申し立てること)した大村は、江戸時代の軍制を保持しようとする士族(元武士)たちの大きな反発を受けてしまいます。
その士族の代表が神代でした。尊王攘夷を掲げる神代にとって、天皇を蔑ろにして外国に媚びたように見える政策は断じて許すことができなかったのです。
その同志というのが、神代と同じく元長州藩士だった「団伸次郎」と「太田光太郎」、久保田藩士の「金輪五郎(かなわ・ごろう)」、白河藩士の「伊藤源助」、三河吉田藩士の「宮和田進」、越後国府居之隊士の「五十嵐伊織」、信州伊那郡の名なご古くま熊村郷士の「関島金一郎」の7人でした。
「全ては日本国のため!」
そう信じて疑わなかった刺客たちは、その時を待ったのでした。
そして、時は明治2年(1869年)9月4日を迎えますーー。
この前の月に京都に到着していた大村は、伏見の練兵場や宇治の弾薬庫の建設地の視察を行った後、大阪に赴き、大阪城内の軍事施設や天保山(てんぽうざん)の海軍基地を視察しました。視察を終えた大村は、9月3日に京都に戻り、宿舎で使用していた京都三条の木屋町の旅館に入りました。
大村が借りた旅館は、別館となっていたものを借り切っていたものだそうで、京都特有の縦長の建物でした。東西に延びた造りになっており、東側は鴨川に面し、西側に玄関が設けられていました。玄関を入ると台所が左手にあり、その先には6畳の部屋と8畳の部屋が連なり、階段を上ると4畳半の部屋がありました。
大村は、部下である安達幸之助(長州藩出身の伏見兵学寮の英学教師)と静間彦太郎(長州藩の大隊司令)の2人と奥の4畳半の座敷で、好物の冷奴をつまみに、ちびちびと酒を酌み交わしていました。鴨川に面した座敷での小宴は、外からよく見えたことでしょう。
大村たち3人とは別に、大村の従者だった山田善之助と、大村の部下の吉富作之助(兵部省の作事取締)がいました。
大村が旅館に戻ったという情報を聞きつけた神代たちは、大村を暗殺すべく9月4日の暮六ツ(午後6時)頃に旅館に駆け付けました。神代たちは刺客を3つの組に分けました。
第1組(玄関から先駆けて襲撃) 団・金輪第2組(玄関から後陣で襲撃) 伊藤・太田・宮和田
第3組(裏口に回り込む) 神代・五十嵐・関島
第1組は先駆けとして第2組と共に玄関から襲撃を行い、神代たちがいる第3組は裏手に回って旅館から逃れる大村たちを迎え討つ作戦でした。
まずは第1組の2人が玄関に入り、団が「萩原俊蔵(秋蔵とも)」という偽名の手札(名刺)を渡して、山田善之助に取り次ぎを頼みました。
団「大村先生にお目にかかりたい。長州藩の者で、かねてより先生をよく存じ上げておる。御取り次ぎを願いたい」
山田はその旨を大村に伝えると、
大村「もはや夜分だから、公用ならば明日役所へ来てくれ、私用ならば明後日にしてくれ」
と答えました。山田はそれを伝えると、刺客2人はこう懇願しました。
団・金輪「いや、ぜひ今晩、御面談いたしたく、わざわざ推参(すいさん)いたした。なにとぞ、今一度その旨、御取り次ぎください」
そして、山田がやむなく大村の許(もと)へ再び向かおうと刺客2人に背中を向けた瞬間でした。団と金輪はおもむろに抜刀して、山田の右肩を斬り下ろしました。
金輪「大村は国賊であるから討ち果たす! じゃまするなら家来も討ち果たすぞ!」
金輪はそう叫びつつ刀を振り回したといいます。不意の一撃を受けた山田は即死し、それを合図に刺客たちは大村がいる奥の座敷に迫りました。
窓から逃げた!団が襖を倒して座敷に踏み入れると、その拍子で灯火が消えました。団は暗闇の中で、大村らしき者に斬り付けます。
大村「おのれ曲者!」
眉間を切っ先で斬り付けられた大村が叫びつつ、愛刀で迎え討ちますが、鞘のまま受け止めて鞘走りしたため、左の指さきと右の股関節に深手を受けてしまいます。
安達「賊だ! 賊だ!」
窓際にいた安達が叫び、3人のうちの誰かが鴨川に面した窓から河原に飛び降りました。これを大村だと知った団がその後を追いました。
鴨川で待ち構えていたのは…… その頃、鴨川の河原では神代たち第3組が作戦通りに待ち構えていました。
座敷から飛び降りてきた者を、追い掛けてきた団が後頭部に斬り付けたところへ神代が迫りました。神代は左肩から激しく斬り付け、暗闇の鴨川で、ついに暗殺に成功したのです。
神代は団に聞きました。
神代「大村に相違ないか!?」
同じ長州藩出身であったものの、活躍の場が違った大村の顔を神代は知りませんでした。
団「相違ない!」
それを聞いた神代は、悲願を達成して思わずこう叫びました。
神代「しめた、しめた!」
そして、神代は団と共に鴨川を渡って、その場を逃れました。その後、続いて座敷から飛び出した静間も、第3組の五十嵐に斬られ、小宴をしていた大村たち3人のうち、2人は鴨川の河原で無残に斬殺されてしまいました。
まさかの人違い! こうして大村益次郎襲撃事件は、神代たちの計画通りに遂行されたようにみえました。しかし、実はこの時、大村はまだ生きていました。
重傷を負ったものの、暗闇の中の混乱で座敷から密かに抜け出した大村は、階段を降りて1階の浴室に逃げ込み、浴槽の中に身を潜ませていたのです。河原の方からは、
「大村先生を討ち取った!」
という声が聞こえて戦闘は終息し、神代と団に続いて刺客たちは現場から逃走しました。
難が去ったことを知った大村は、浴槽から出てきて、旅館の手配で呼ばれた医者の治療を受けています。
座ったまま斬り付けられた大村は頭や膝など6ヶ所の大きな傷を負っていました。
この時、大村はこれだけの大事があったにもかかわらず、平然たる態度で、
「皆さん、御心配くださってありがとうございます。私もしばらく栄螺(さざえ)の真似をしていました」
と冗談を言ったといいます。
神代たち刺客8人は、襲撃の正当性を主張するための「斬奸状(ざんかんじょう)」を所持していました。そこには次のような一文が記されていました。
「(大村益次郎は)専(もっぱ)ら洋風を模擬し、神州(日本)の國體(国体)を汚し、朝憲(朝廷が定めた掟)を蔑(ないがし)ろにし、蠻夷(野蛮人)の俗を醸し成す」
つまり「洋風を真似て日本を汚し、朝廷を蔑ろにして、野蛮人となっている」ということであり、大村の急進的な洋式軍制改革が、襲撃事件の原因だったことが分かります。また、後に神代は、
「開港の説を主張した大村氏を速やかに殺害しなければ、王政御一新(ごいっしん)の目的は果たせない」
と話すと共に、「討ち取った首は、大村氏の首でないと聞いて仰天(ぎょうてん)した」とも述べています。
大村は「火吹き達磨」というあだ名と肖像画を見て分かる通り、一目見たら忘れられないかなり独特な容貌をしています。同じ長州藩ということもあったので、もう少しリサーチをしておけば、襲撃時に討ち漏らすことはなかったのではないかと思います。
さて、刺客の一人の宮和田は襲撃時に深手を負って亡くなり(逃走中に斬首を願い出て五十嵐が介錯したとも)、実行犯となった6人は神代を除いて、9月中に次々と捕縛されました。そして、この年の12月29日に京都の粟田口(あわたぐち)の刑場で斬首の上、梟首(きょうしゅ=斬首した罪人の首を木にかけてさらすこと)の刑に処せられました。
首謀者の神代は、なかなか捕縛されませんでしたが、6人の実行犯よりも先に亡くなっています。
神代は京都から逃れ、豊後の姫島(大分県姫島村)に潜んだ後に、長州の山口へ戻った際に捕縛の手に掛かりました。その際に、捕縛を良しとしなかった神代は切腹を試みたそうです。割腹(かっぷく)したために先が長くないと捕吏(ほり)に判断され、その場で神代は斬首されたといいます。
また、別の説では、10月12日に山口の揚り屋(留置所)に収監されて取り調べが行われた後、10月20日に斬首が決定して、あまり日を置かないうちに刑が執行されたと言われています。長州藩は藩内にまだ潜んでいた過激な尊王攘夷派の者たちを厳しく取り締まっていくということを示すためにも、神代を長州藩で断罪に処して見せしめとすることに拘っていたといいます。
さて一方で、重傷を負った大村も、神代の死から約2週間後の11月5日に亡くなっています。死因は敗血症(はいけつしょう=感染が原因の臓器障害)でした。大村は襲撃時に浴槽に潜みましたが、この時、浴槽には使用した後の汚れた水が入っていたため、右膝の傷口から菌が入って敗血症となってしまったのです。
蘭医のボードウィンによる右大腿部の切断手術が行われたものの、勅許(ちょっきょ)を得ることに手間取ったため(要人の手術は勅許が必要だった)、高熱を発して亡くなってしまいました。享年46でした。
こうして、神代の暗殺計画は襲撃時には失敗したものの、それからおよそ2ヶ月後に達成されたのでした。
明治26年(1893年)、戊辰戦争で亡くなった方たちを祀(まつ)るための「東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)」の建立に大村が貢献したことから、明治26年(1893年)に日本初の西洋式銅像として大村の銅像が建てられました。東京招魂社は明治12年(1879年)に「靖国(やすくに)神社」と改称されて現在に至り、大村の銅像も建設当時のまま残されています。
襲撃当時のものを残すものはほとんど残されていませんが、現場となった跡地の近くには「大村益次郎卿遭難之碑」が建てられています。
また、大村の襲撃事件から遡(さかのぼ)ること5年。ほぼ同じ場所で「人斬り彦斎」こと河上彦斎によって、松代藩の兵学者・佐久間象山が暗殺されました。
そのため大村の遭難の碑の隣には「佐久間象山遭難之碑」が建てられています。
一方、斬首された神代の亡き骸は、ひとまず山口の地に埋葬されました。その後、京都で斬首された他の6名と共に梟首されると決まったものの、理由は定かではありませんが、神代の首が京都に送られることは結局ありませんでした。そして、神代の遺骸はそのまま捨て置かれ、埋葬された場所や墓所は今も定かではありません。