満洲事変、シナ事変と中国大陸を巡って日米両国が対立し、ついに日米戦争に発展してしまった――。こういった歴史観には致命的な欠陥がある。
日米開戦を引き金を引いたのはソ連だ。江崎 道朗氏は著書『日本は誰と戦ったのか』 の中で、ホワイトの覚書を引きながら、ソ連が日米両国の対立を煽ろうとする流れを明らかにする。■ソ連に操られていた日米和平交渉
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ヘンリー・モーゲンソウ

 アメリカの陸海軍トップが日米戦争を望まないのと同様、来栖と野村も日米戦争を望まず、「アメリカが石油禁輸を解除するなら南部仏印から直ちに撤兵し、日中の和平がまとまれば仏印から完全に撤退する」と同意します。
 この会談から前述の暫定協定構想が具体化していったのですが、ホワイトは直ちにこの案を潰しにかかりました。モーゲンソー財務長官の名前を使ってルーズヴェルト大統領を動かそうとしたのです。
「モーゲンソー財務長官メモ」は、モーゲンソー財務長官の意見としてルーズヴェルト大統領に届けられました。そして、このメモとほぼ同時にホワイトが作った強硬な対日案「モーゲンソー私案」も大統領に届けられました。須藤氏はこう記しています。

 十一月十七日、新提案は日米交渉の主役である国務省の頭越しに、財務省から大統領あてに届いた。モーゲンソー財務長官(彼もマジックの内容は知らなかった)が、対日提案を私案の形で提出したのである。(『ハル・ノートを書いた男』一〇〇頁)
ハル・ノートはなぜ「最後通牒」となったのか? ソ連に操られた日米和平交渉
蒋介石(左)宋美齢(中央)アメリカ軍スティルウェル准将(右)1942年撮影

『スターリンの秘密工作員』に戻ると、ホワイトは、ハル国務長官の暫定協定案を何がなんでも潰すため、在米の政府職員や民間活動家に「蔣介石を守れ」と緊急動員をかけています。「ハル国務長官や米軍幹部は日米戦争を回避するために、日本と妥協して、日本と戦っている中国の蔣介石を見捨てようとしている。

それでいいのか」と呼びかけたわけです。

 当時、ルーズヴェルト政権に対して対アジア政策を提案していた民間シンクタンクの太平洋問題調査会事務総長のエドワード・C・カーターは、一九四一年十一月に、「暫定協定を潰す会議をするのでワシントンに出てくるようにとホワイトから呼び出しを受けたが、ワシントンに着いてみたらすでに問題は片付いていた」と上院国内治安小委員会で証言しています(上院国内治安小委員会『太平洋問題調査会報告書』p.180)。ちなみにこのカーター事務総長はソ連のシンパでした。

ハル・ノートはなぜ「最後通牒」となったのか? ソ連に操られた日米和平交渉
宋美齢(中央)とともにアメリカのシェンノート(左)と会談する蒋介石

 モーゲンソー財務長官メモと前後して作成され、国務省の頭越しに大統領に提出された強硬な対日案「モーゲンソー私案」は、実際にはホワイトの手によるものですが、モーゲンソーの名前で発出されたのでモーゲンソー私案と呼ばれています。
 ここでも、日本が中国及び満洲から軍事的に撤退することが盛り込まれていますが、それは、中国及び満洲をソ連の支配下に追いやることを意味していました。
 これらの条文の多くが最終的にハル・ノートに採用され、日本側は「到底飲むことができない最後通牒」と認識して対米開戦に至りました。日米和平交渉はソ連に操られていたわけです。
 ジョン・コスターの『雪作戦(Operation Snow)』によると、ホワイトは、このモーゲンソー私案に対する日本の回答期限を短く設定せよと提案しています。 

 世界情勢の展開を鑑みれば、合衆国は現在の日米関係の不安定な状況の継続を許容し得ず、また、今や決定的行動が必要であると感じるがゆえに、合衆国は、上記の寛大かつ平和的な二国間の問題解決を限られた期間にのみ提供する。
 もし日本政府がその期間の満了前に、合衆国側の提案を原則的に受け入れると表明しないならば、それは、現在の日本国政府がこれらの問題解決法として、別の、より平和的ならざる方法を望んでおり、さらなる侵略作戦を試みる好都合な機会を待ち受けていることを意味するのみである。(『雪作戦(Operation Snow)』p.136)

 ホワイトの意図は明らかでしょう。日本を徹底的に挑発して何がなんでも戦争に追い込もうという意気込みは、鬼気迫るものがあります。

(『日本は誰と戦ったのか』より構成)

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