明治28年(1895)8月20日、第26代朝鮮国王である高宗の王妃閔妃が、高宗の父である興宣大院君を奉じた日本の朝鮮公使三浦梧楼らを中心とする軍隊に襲撃され、王宮で暗殺されてしまう。43歳だった。この暗殺事件は、発生した年の干支にちなんで「乙未事変」とよばれる。
イラスト/ 羽黒陽子閔妃というのは、朝鮮王朝における貴族であった閔氏出身の王妃という意味である。閔妃は、15歳の時に第26代国王高宗の正妃として迎えられた。明成皇后という名でも知られているが、この諡号は、朝鮮が帝政に移行したあとに贈られたものであり、当時の称号ではない。なお、閔妃として伝わる肖像写真については、近年、別人との説も出されている。
国王の王妃が、国王の父を奉じた日本軍に襲撃されるという事件の顛末は、現代の感覚からすると理解しにくい。しかし、その原因は、王権をめぐる朝廷内の権力争いという側面からみるとよくわかる。朝鮮では、王妃の実家が外戚として政治に介入する土壌があり、国王の実父と権力をめぐって争うということが頻繁におきていた。それは、高宗の時代になっても、変わっていなかったのである。
このころ、朝鮮では前代の国王が嗣子なく早世したため、傍流の高宗が王位に就いた。即位したとき、高宗はわずか12歳であったため、高宗の父が摂政となる。それが、興宣大院君であった。ちなみに、大院君とは、直系ではない国王の実父に与えられる称号を言う。高宗の父は国王でなかったから、大院君の称号を得たのである。朝鮮王朝には、ほかにも大院君の称号を与えられた国王の父がいたものの、興宣大院君が有名なため、一般に大院君といえば、この興宣大院君を指す。
摂政となった興宣大院君は、国内に対しては汚職を追及するなどの改革を行い、国外に対しては鎖国政策を進めイギリス・フランス・アメリカなどの欧米列強からの圧力から国土を守ろうとしていた。しかし、強硬な方法に異を唱える廷臣も多く、高宗が20歳を過ぎると、隠居を余儀なくされてしまう。こうしたなか、政治の実権を握ったのが、王妃の実家にあたる閔妃の一族だった。特に、閔妃が高宗の嫡男を生むと、閔氏一族の権力は強大化することになる。■日本が閔妃を暗殺しなければならない理由はあるか?
明治15年(1882)、興宣大院君は閔氏一族に対して反乱を起こすが、朝鮮に出兵した宗主国の清によって拉致されてしまう。これにより、閔氏一族が政権に返り咲いたものの、朝鮮は清の影響下におかれることとなった。
このクーデターにより、日本は朝鮮の内政改革を断行し、近代的な内閣制度も整備された。しかし、朝鮮の宗主権を主張する清と対立することとなり、明治27年(1894)には日清戦争を引き起こすことになるのである。この日清戦争では、日本が勝利をおさめ、下関条約によって朝鮮は清からの独立を果たした。このとき、清と結んでいた興宣大院君は日本によって追放され、朝鮮の内政改革は日本によって進められていく。
しかし、その後の三国干渉、すなわちフランス・ドイツ・ロシアが下関条約で日本が清から獲得した遼東半島の返還を求めると、閔氏一族は、ロシアと結ぼうとしていた。
こうした状況のなかで、日清戦争時に朝鮮公使を務めていた井上馨が日本に帰国すると、明治28年(1895)、代わって三浦梧楼が朝鮮公使として赴任してくる。閔妃暗殺事件がおきたのは、この直後のことだった。そのため、三浦梧楼が事件の首謀者とみなされているのである。
朝鮮がロシアと結ぶようになれば、日本の朝鮮における影響力は低下してしまう。朝鮮公使の三浦梧楼が、閔妃を暗殺することで、打開を図ろうとしたという考えも、そこから生まれている。
そうしたことから、日本が閔妃を暗殺しなければならない理由は見つからない。一部の日本人が加わっていたのは確かだとしても、政府の指示でなかったのは確かであろう。そもそも、首謀者とされる三浦梧楼は、この事件後、日本に召還されて広島監獄署に収監されている。結果的には、証拠不十分として免訴となっているが、事件では何の利益も得ていない。そんな三浦梧楼が、積極的に事件を首謀する理由が果たしてあるのだろうか。
この事件で利益を得たのは、まぎれもなく興宣大院君である。
この事件によって、興宣大院君は、長きにわたって権力争いを繰り広げてきた閔妃を死に追いやったばかりか、閔氏一族を朝廷から排除することに成功した。こうして、興宣大院君が朝廷の実権を握ったものの、長く続いた抗争は国内を疲弊させると同時に日本の介入を許すことになる。高宗は、国号を大韓と改め、皇帝として即位することで日本に対抗しようとしたが、内実が変わったわけではない。高宗の子純宗が第2代皇帝として即位しても、実権は日本に握られたままだった。そして、ついには日本と合併する条約への調印を迫られ、明治43年(1910)、500年以上続いた朝鮮王朝は滅亡することになるのである。