吉原の遊女の年季は、「最長十年、二十七歳まで」という原則があった。そのため、身売りのとき、この原則にはずれるような証文を作成することはできなかった。
吉原は公許の遊廓であり、吉原の遊女は公娼である。幕府も公娼には最低限の人権を保証したと言おうか。
いっぽう、岡場所はそもそもが非合法の遊里で、遊女は私娼だった。吉原の原則は適用外である。そのため、岡場所の女郎屋では「最長十年、二十七歳まで」をはるかに超える、過酷な年季が設定されることも多かった。
さて、遊女は多くの男に身をまかす境遇ではあるが、やはり男女のなかであることに違いはない。男が馴染みとなって通ううち、真の恋愛に発展することがあった。
しかし、女は証文にしばられた身である。残りの年季を勤めあげるまで、あるいは二十八歳になるまで、吉原から抜け出ることはできない。男も女も年明け(年季明け)まで、ひたすら待つしかなかった。
だが、男にしてみれば、自分が惚れた女が他の男にも身を任せる状況は耐え難い。さらに、遊女を長く勤めれば勤めるほど、病気に感染して健康を害する恐れも高まる。
そこで、妓楼に金を払って証文を破棄させ、年季途中の遊女の身柄をもらい受けることができた。これが身請けである。
図1は、高尾太夫を大名が身請けするにあたり、その体重と同じだけの小判を払う光景である。
もちろん、図1は誇張である。マンガといってもよいかもしれない。
だが、身請けに大金を要したのは事実である。楼主は、その遊女が残りの年季のあいだに稼ぐであろう金額の保障を求め、ここぞとばかりにふっかけたのである。女を独占したいという男の心理に付け込んだともいえる。
史料で確認できるところでは、『俗耳鼓吹』(大田南畝著、天明8年)に、天明三年(1783)の秋――
とあり、呉服屋『越後屋』の手代が、松葉屋の当時全盛の花魁瀬川を千五百両で身請けした、と。
しかし、越後屋がいかに大店とはいえ、手代が千五百両を払えるはずがない。おそらく手代は代理で、本当に身請けをしたのは大名、あるいは越後屋の主人であろう。
それにしても、千五百両とは驚きである。大金を象徴しているという意味では、図1もまんざら見当違いではあるまい。

瀬川の千五百両は極端としても、身請けには数百両がかかるのが普通だった。
遊女を身請けできる男など、ごく限られていた。それだけに、男の最高の見栄でもあった。
いっぽうの遊女にしてみれば、身請けされて年季の途中で吉原を抜け出るのは、まさに最高の玉の輿だった。
図2には、「静山、身請けせられ、門出のところ」とあり、花魁の静山が身請けされ、駕籠に乗って大門を出て行くところである。まさに門出だった。
静山は駕籠から、見送りにきた禿にこう声をかけている――
「みどりや、随分これから、おとなしくしやよ」
いっぽう、左の見送りの遊女ふたりは――
「おいらんえ、おさらばえ、今年の暮れには、わたしも出ますから、お訪ね申しいしょう」
「灯籠に、どうぞおいでなんし」
ひとり目の遊女は、年末に年明きになるようだ。
もうひとりの言う「灯籠」は、七月におこなわれる吉原三大行事のひとつ、「玉菊灯籠」のこと。
この静山のように身請けされたのは、僥倖を得た、ごくひとにぎりの女だった。