宝暦期(1751~64)に太夫の称号が廃止されるなど、吉原の遊女の階級は簡素化された。宝暦期以降の階級は相撲にたとえると、わかりやすい。つまり、
花魁(おいらん)―― 関取新造(しんぞう)―― 幕下
禿(かむろ) ―― 初土俵前の見習い
となろうか。
写真を拡大 図1『聞道初音復讎』(山東京山著、文化6年)、国会図書館蔵 相撲界と同様、遊女の待遇も階級によって決まった。食事に関しても、階級によって待遇の差は歴然としていた。
図1は、妓楼の朝食の光景である。ただし、遊女が起床するのは四ツ(午前十時頃)だから、妓楼の本格的な朝は四ツだった。当然、朝食も四ツ以降となる。
注目すべきは、飯台と呼ばれるテーブルに向かい、新造と禿が食事をしていることだ。
飯台が置かれているのは、多くの奉公人や客人なども行き交う、一階の廊下と言ってもよいような場所である。しかも、食事をしているところは丸見えだった。
いっぽう、図2の右頁は、花魁の朝食の光景である。

花魁は二階に個室をあたえられていた。食事も下女などが個室に運んでくれる。
ひとりで食べるのはつまらないというとき、図2のように誰かの部屋に集まって食べることもあった。
現在の旅館の区分によれば、幕下以下は会場食、関取以上は部屋食ということになろうか。
このように、食事場所こそ差があったが、妓楼が出す食事は質素だった。戯作『錦之裏』(山東京伝著、寛政3年)に、吉原の妓楼の朝食の光景が描かれているが、遊女たちがおかずについて不平を言う――
「けさの惣菜は何だ」
「たしか芋に油揚でござりぃすよ」
「恐れるね」
「あやまりいす」
このように、おかずこそ貧弱だったが、ご飯は銀シャリ(白米)だった。図1でも、大きな盥に銀シャリが盛られているのがわかる。
当時、米を作る農民自身は滅多に銀シャリは口にできなかった。米を収穫しても、ほぼ半分を年貢に収めなければならない。残った米も大部分を売らなければ、現金収入がなかったからだ。
そのため、農民が日ごろ口にするのは雑穀や麦飯であり、銀シャリは特別なときに食べるご馳走だった。
毎日、銀シャリを食べるという点からすれば、遊女の食生活は農民よりはるかにめぐまれていたといえよう。
妓楼が出す食事のおかずは貧弱だったが、全盛の花魁ともなると、台屋と呼ばれる仕出料理屋から惣菜を取り寄せるなどのぜいたくをした。
妓楼の考え方はおそらく、こうだったであろう。
「みなも、あの花魁のようにうまい物を食べたければ、もっと客人を悦ばせ、祝儀をはずんでもらえ」
なお、朝食と昼食こそ決まった時間にそろって膳についたが、夜は忙しいため、それぞれが手のすいたときに台所に来て、冷飯に湯をかけ、沢庵だけで流し込んだ。
もちろん、全盛の花魁ともなると、夜は気前のよい客人が宴席をもうけるので、豪華な料理を賞味することができた。