吉原の仕組みのなかで、もっとも分かりにくいのが引手茶屋であろう。
日本堤から大門に通じる五十軒道の両側には、引手茶屋があった。また大門をくぐると、仲の町と呼ばれる大通りがまっすぐにのびていたが、この仲の町の両側には引手茶屋が軒を連ねていた。
写真を拡大 図1『二枚折風爐前屏風』(小野田理童著、文政11年)/国立国会図書館蔵大門の外と内に引手茶屋があったわけだが、仲の町にある引手茶屋の方が格が上だった。
図1に、仲の町の引手茶屋が描かれている。店の前に置いた床几に、花魁と禿が腰をかけている。
では、そもそも引手茶屋の役割は何なのか。簡単にいうと、吉原遊びの案内役である。
もちろん、引手茶屋を通さなくても吉原で遊ぶことはできた。
男は妓楼の張見世で遊女を見て、
「左から三番目の、赤い着物を着た……」
などと、入口付近にいる若い者に伝えさえすればいい。
あとの段取りは若い者が付けてくれる。
二回目(裏)からは、すでに遊女の名前はわかっているので、入口で若い者に告げればよい。
いっぽう、まず引手茶屋にあがった場合、酒や肴が出る。茶屋の女将は談笑しながら客の好みを聞き取り、妓楼と遊女を手配してくれる。あらかじめ若い者を走らせ、予約もしておいてくれた。
しばらくして、女将や若い者の案内で、妓楼に出向くという手順である。
妓楼のほうも、引手茶屋に案内された男は上客として優遇した。
その後、茶屋の若い者は付きっ切りで客の面倒を見た。宴席にも出て、芸者や幇間の手配、台屋から料理を取り寄せる手配などもした。
さらに、客が床入りするところまで見届け、頼んでおけば翌朝の決まった時刻に、寝床まで起こしに来てくれた。
妓楼を出て引手茶屋に行くと、雑炊などの朝食となり、最後に支払いである。
こうした遊び方は当然、高くついた。
高くつくのはわかっていながら、余裕のある男があえて引手茶屋を通して遊んだのは、立て替え払いをしてくれたからである。
つまり、遊女の揚代はもちろんのこと、芸者・幇間や台屋の支払いなど、引手茶屋はすべて立て替え払いしてくれた。
要するに、客にとって引手茶屋はクレジットカードだったのである。
だが、現代のクレジットカード同様、つい使いすぎてしまう恐れもあった。
古典落語に、吉原で多額の借金を作って勘当される商家の若旦那が登場するが、たいていは引手茶屋への借金だった。
逆からいうと、リスクの大きい商売だけに、引手茶屋は客を見定める。親が大きな商家だとわかっているので、若旦那の遊びを引き受けたのである。貸し金がふくらんでも、あとで親に請求すればいいからだ。
こんな引手茶屋を通した遊びのなかで、もっとも贅沢な遊び方はつぎのようなものだった。
客はまず引手茶屋にあがり、妓楼から遊女を呼びよせる。遊女は当然、上級の花魁なので、配下の新造や禿を従えてやってくる。
さらに、芸者や幇間も呼びよせ、引手茶屋で酒宴をおこなう。
いい気分になったところで、一同で妓楼に向かい、さらに盛大な酒宴をもうける、というもの。
遊女からすれば、現在の水商売の「同伴出勤」にあたり、妓楼でもいい顔ができた。
客からすれば、大勢を従えて妓楼に出向くわけであり、まさに大尽遊びだった。そんな光景が図2である。

図2は吉原関係の本にしばしば掲載されている有名な絵で、なかには「花魁道中」と説明したものがあるが、まったくの間違いである。
大勢を引き連れて引手茶屋から妓楼に向かう図2のような光景を見て、
「どこのお大尽だろうか」
と、人々はうらやましがった。
男からすれば、最大の見栄だった。