江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
■新吉原と元吉原

 吉原は元和四年(1618、二代将軍秀忠)に営業を開始し、昭和三十三年(1958)に営業を終了した。遊廓として、じつに三百四十年ものあいだ続いたことになる。ただし、その長い歴史において一度、移転している。

 元和四年に始まったとき、場所は現在の東京都中央区日本橋人形町のあたりだった。

 ところが、およそ四十年後、浅草の浅草寺の裏手にあたる千束村、現在の台東区千束四丁目に移転し、明暦三年(1657)から営業を開始した。

 このため当初の吉原は元吉原、移転後の吉原は新吉原だが、普通、吉原と言えば新吉原のことである。

 そのため本稿では、元吉原と吉原に区別し、特別な事情がないかぎり新吉原とは表記しない。

 さて、三百四十年もの吉原の歴史のなかで、元吉原の時代はわずか約四十年でしかない。
 また、元吉原の史料もほとんど残っていない。

 その大きな理由のひとつが、明暦の大火であろう。明暦三年に起きたこの火災で、江戸城の本丸はじめ江戸の町のほとんどが焼失し、もちろん元吉原も灰燼に帰した。このとき、資料は焼失してしまったのであろう。

 なお、明暦の大火が原因で吉原は移転したわけではない。移転そのものは、明暦の大火以前に決まっていた。

 余談だが、将来、日本橋人形町の一帯で大規模な再開発がおこなわれたら、おそらく元吉原の遺構が発掘されるのではあるまいか。

 ■素朴で質素な元吉原の遊女

 さて、元吉原の様子を伝えるほとんど唯一の史料といってもよいのが、『あづま物語』(寛永19年)である。刊行年の寛永十九年(1642、三代将軍家光)は、まさに元吉原の時代である。

 図1と図2は、『あづま物語』のなかの挿絵だが、絵師は元吉原を実際に見て描いていた。つまり、後世の絵師が想像で描いたものではない。

 絵を見てすぐに気づくのは、遊女の風俗が質素で素朴なことであろう。

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写真を拡大 図1『あづま物語』(写本)/国立国会図書館蔵
知る人ぞ知る、人形町にあった「元吉原」
写真を拡大 図2『あづま物語』(写本)/国立国会図書館蔵

 図1には、かふろ(禿)、太夫、やりて(遣手)、けんぶつ人(見物人)、ところの人(所の人)、あつまおとこ(東男)が描かれている。

 図2は宴席で、あつまおとこ、かふろ、やりて、そして背後に大勢の遊女が描かれている。

 元吉原の時代は、江戸時代の初期である。遊廓だけに、元吉原の遊女の衣食住は、庶民からすれば華美で贅沢に映ったはずである。

ところが、そのありさまは図1や図2の通りだった。

 つまりは、当時の庶民の生活水準がいかに低かったかということであろう。社会全体が貧しかった。

知る人ぞ知る、人形町にあった「元吉原」
写真を拡大 図3『続歴代風俗写真大観』(風俗研究会編、昭和8年)/国立国会図書館蔵

 図3は、標題に「江戸天和頃の遊女立姿」とあり、元吉原の太夫の写真である。 

 もちろん、当時、写真などあるはずがない。

 これは、風俗研究会(主幹・江馬務)が昭和七年(1932)、元吉原の太夫の風俗を考証し、再現したものである。

 現在、日本人が目にする吉原の遊女は、浮世絵や錦絵に描かれたものである。つまりほとんどは江戸後期の吉原の風俗である。そんな風俗を見慣れた目で見ると、元吉原の時代はじつに素朴だった。

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