図1の右側の、暖簾のかかっているところが妓楼の入口である。
暖簾をくぐってなかにはいると、土間になっているのがわかろう。
おりしも、遊女が客の見送りにやってきた。
「また、おいでなんしよ」
などと言って、送り出す。
土間に立って腰を折っているのは若い者である。客の履物をそろえて土間に置き、
「へい、また、お越しくださいませ」
などと、お愛想を言っているのであろう。
図1を見て、すぐに気づき、奇異に感じるのは二階に通じる階段であろう。逆向きに取り付けられている。
だが、これは絵師の描き間違いではなく、吉原の妓楼に共通する階段の取り付け方だった。次の図2でも、階段は逆向きに取り付けられているのがわかる。

では、何故、こんな奇異な取り付け方をするのだろうか。
おそらく、楼主の居場所である内所から、階段を昇り降りする人の姿が見えるようにするためと思われる。
図2は、妓楼の内側から入口を見通した光景である。三浦屋と染められた暖簾の掛かっているところが入口。
入口をはいると土間だが、その土間は台所に通じていることがわかる。
客が暖簾をくぐって土間にはいると、すぐに台所と、忙し気に立ち働いている料理人や下女の姿が見えたのである。
現代の風俗店でいえば、入口をはいると、まず台所があり、そこで従業員のまかないを作っており、煮炊きをする湯気や匂いが濃厚に立ち込めていることになろうか。客にそんな舞台裏の光景を見せるなど、現代ではとうてい考えられない。
だが、一階に台所があり、客に丸見えなのは、吉原の妓楼に共通する構造だった。
大見世ともなると、遊女と各種の奉公人など、その人数は百人前後にもなった。惣菜は粗末とはいえ、日々のまかない料理の量は膨大だった。
さらに、客に出す料理もある。酒の燗もしなければならない。
妓楼の台所は多忙だった。

ただし、宴席に出す豪華な料理は、台屋と呼ばれる仕出料理屋から取り寄せるのが普通だった。
図3に、台屋の若い者が妓楼に料理を届けにきたところが描かれている。
第9回『深夜、宴席の残飯をあさる遊女の切実さ』の図2に、台屋の厨房が描かれていた。こうした厨房で作られた料理が、妓楼に届けられたのである。