『みいらとり』という古典落語がある。
商家の若旦那が吉原の妓楼に登楼したが、そのままいっこうに家に帰ってこない。妓楼に居続けをしているのだ。
そこで、旦那に命じられて番頭が迎えに行ったが、そのまま帰ってこない。「みいらとりがみいらになる」だった。
そこで、今度は、出入りの鳶の頭を派遣するが、頭も帰ってこない……
落語だけに特有の誇張があり、笑い話に仕立てている。木乃伊とりが木乃伊になるのは極端としても、居続けはよくあることだった。
図1で、男が居続けになる状況を見ていこう。
写真を拡大 図1『団扇張替』(礫川南嶺著、文政4年)図1の男が手にしているのは房楊枝。房楊枝は、いわば歯ブラシである。禿が持参したのは、口をすすぐ水。
つまり、遊女と床を共にした、翌朝の光景である。
ところが、急に激しい雨が降り出した。やむなく男は妓楼にとどまったが、やがて昼食の時刻となった。
男が気を利かせて、鰻の出前を頼もうとしたところ、遊女が言う。
「無駄なことは遠慮なく止め申しいすから、そのつもりで付き合っておくんなんし。お昼のおかずは、あっちがいい物をあげんす」
なんと、遊女は無駄遣いをやめさせ、昼食のおかずは自分が準備すると言った。これを聞き、男は胸がジーンとなったであろう。
まるで夫婦、あるいは恋人同士のように昼食を共にし、さらには夕食も共にして、そのまま泊まる。
まさに、これこそ吉原の遊女の手練手管だった。
かくして、居続けとなる。
■居続け、後に結婚する例も
図2も、居続けの光景である。
男が、
「蒲焼を取りにやろうか」
と、鰻の出前を頼もうとした。
遊女はやはり男に無駄遣いをやめさせ、禿に命じて漬物を用意させた。
ところが、禿がこう言う。
「おいらんへ、菜漬けにカビが生えんした」
遊女は、世帯のやりくりもできる堅実なところを見せようとしたのだろうが、かえって馬脚を現してしまったといおうか。

図3では、遊女が男のために、かいがいしく鍋で料理を作ってやっている。
こうした姿を見ると、男は去りがたくなる。つまり、居続けである。
もちろん、居続けをしていると、支払額は雪だるま式に増えていく。そのあげく、親に勘当される男は少なくなかった。
しかし、逆の例もあった。
『山東京伝一代記』(山東京山編)によると、戯作者の山東京伝は、弥八玉屋の玉の井という遊女のもとに居続けし、家に帰るのは一カ月のうち四、五日に過ぎなかった。しかも、こんな状態が数年、続いた。
だが、自堕落なようにみえて、京伝は一日の出費は金一分と決め、それを守った。
いっぽうの玉の井も、京伝に祝儀をせびったりはけっしてしなかった。
後、京伝は玉の井を妻に迎える。
吉原に居続けとはいいながら、京伝は玉の井と数年のあいだ、なかば同棲生活を送り、性格を見きわめた上で結婚したと言えよう。