江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
■休日

 1月1日と7月13日、吉原は大門を閉じ、妓楼は一斉休業した。
 逆からいえば、1年のうち、妓楼の奉公人はわずか2日間しか休日がなかったことになる。
 ただし、遊女の場合は公式の休日とは別に、いわゆる生理休暇があった。
 正確な史料はないが、月経になった遊女は3日間ほど、客を取るのを免除されたようだ。なお、月経を、隠語で行水といった。

 当時、「月役7日」といいい、月経になった女は、7日間は性行為をひかえるべきとされていた。
 それに比べると、吉原の遊女はわずか3日間だけの休みで、「復帰」させられていたわけである。

 さて、第8回「階級によって大きな格差……遊女の食事事情」で述べたように、妓楼の食事は質素だったし、食べる場所も違っていた。

 花魁は2階の自室で、新造と禿は一階の広間にみなでそろって食事をした。
ところが、1月1日の、元日だけは別だった。

 
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写真を拡大 図1『五節供稚童講釈』(山東京山著、天保4年)

 図1は、元日の、妓楼の一階の食事光景である。遊女がそろって、雑煮を食べている。


 四人の遊女が描かれているが、左のふたりは花魁、右のふたりは新造である。
 花魁の前に置かれた膳と、新造の前の膳は、あきらかに格差がある。
また、膳の上の皿数にも差があるようだ。

 正月の雑煮にも、遊女の階級によって格差があったのがわかろう。
左に立っている、裃姿の男は楼主である。

 社会的に蔑視される職業だったが、元日ばかりは、楼主も晴れ姿だった。

■紋日

 いっぽう、吉原には紋日という制度があった。

 紋日とは、各種の記念日である。

 現在、商店街や大型ショッピングセンターが○○記念セールという場合、特売をおこなう。つまり、安売りをする。 

 また、現代人もそれを当然と思っている。この機会に出かけ、大きな買い物をするといおうか。

 ところが、吉原の紋日は、揚代が逆に高くなった。それも、何と、二倍になったのである。

 現代人には、とうてい理解しがたい、理不尽な制度と言えよう。

 当然ながら、余計な出費になるのを嫌い、男は紋日に吉原に出かけるのを避けた。

 いっぽうで、紋日に客がつかない遊女は、自分で揚代を負担しなければならなかった。

 このため、遊女は必死になって、馴染み客に紋日に登楼してくれるよう願った。

 要するに、紋日は妓楼がもうけを大きくする仕組みにほかならない。

 紋日は遊女にとっても、客にとっても、つらい制度だった。

遊女の休日、吉原の紋日。
写真を拡大 図2『吉原細見』(安政6年)

 図2に、紋日が記されている。
 わかりやすく表記すると、

  正(一)月 松の内
 三月 三日、四日
 五月 五日、六日
 七月 七日、十五日、十六日
 八月 朔(一)日
 九月 九日
 十月 二十日

 である。

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