連載を終えるにあたって、「昭和の吉原遊廓」で締めくくりたい。
明治維新以降も、吉原は遊廓として存続した。
売春防止法が成立し、昭和33年(1958)年4月1日から本格施行されるのにともない、吉原遊廓は終了した。
逆からいえば、昭和33年3月末日まで、遊廓として営業していたわけである。
写真を拡大図1『全国遊廓案内』(日本遊覧社、昭和5年)
図1は、大正2年(1913)に、吉原でおこなわれた花魁道中の、娼妓(遊女)の写真である。花魁道中のときは、娼妓は江戸時代の花魁のかっこうをした。
『全国遊廓案内』(日本遊覧社、昭和5年)という本がある。
同書の、「関東地方――東京府――東京吉原遊廓」の項を紹介しよう。
なお、昭和5年発行の書籍だけに、漢字は旧字(正字)で、旧仮名遣いである。読みやすくするため、漢字は新字、仮名遣いは新仮名遣いに改め、一部の漢字を平仮名に直した。
東京吉原遊廓東京市浅草区新吉原京町、角町、江戸町、揚屋町、仲之町の五カ町の一廓が全部遊廓になっている。
……(中略)……
吉原の現勢としては、引手茶屋が四十五軒、貸座敷が二百九十五軒、紅唇の娼妓が三千五百六十人働いている。震災後の建物は、なかば永久的なものではあるが、震前のものに比べ、いずれもみな近代味を取り入れて、どこもここも明るい感じのする純日本式の建て方が何よりも喜ばしい傾向である。娼妓の約半分は東京地方の女、他の過半数は東北地方の女である。
……(中略)……
遊興に甲乙二種の等級がある。甲(白券)乙(青券)で、甲は二時間四円、乙は二時間二円ということになっている。もっとも小店では一円五十銭でも遊ばしているらしい。この他には、四時間、全夜、全昼等の別があるのだが、店によって多少の相違はまぬかれない。
……(後略)……


貸座敷は妓楼のこと、娼妓は娼婦(遊女)のことである。
図2に、295軒の貸座敷の一覧を示した。
江戸時代、吉原は俗に「遊女三千」といった。昭和初期、東京吉原遊廓の娼妓は3560人である。
昭和初期、吉原は江戸時代のとき以上に繁栄していた。