40年前、鹿児島県大崎町で男性の遺体が見つかった「大崎事件」で、殺人罪で服役した原口アヤ子さん(92)らが起こしていた第3次再審請求は、地裁と高裁の再審開始決定を最高裁が破棄し、そのうえ自ら請求を棄却して強制終了させた。この前代未聞のやり方とその後の対応での“強気”な姿勢からは、最高裁はもはや「人権の砦」としての役割を放棄したように見える。
再審請求を“強制終了”させた最高裁
事件の概要、地裁・高裁や最高裁の各決定については、すでに多くの報道がなされているので詳述しないが、以下の1点だけは指摘しておきたい。
再審請求審では、被害者とされるXさんの死因が最大のテーマになった。確定判決は、死体を解剖した城哲男・鹿児島大教授(当時)の鑑定と共犯者とされた人たちの自白に基づいて、死因はタオルによって首を絞めたことによる絞殺と断定していた。
これに対し、弁護側が今回の再審請求で提出した、吉田謙一・東京医科大教授は、絞殺の根拠とされた「頸椎前面の組織間出血」は首の「過伸展(むち打ち症のような力が加わること)」によるものと判断。Xさんが酒に酔って自転車に乗り、側溝に転落する事故を起こし、全身がぬれた状態で下半身裸のまま放置された後に、軽トラックの荷台に放り込まれて自宅に運ばれた経緯を重視し、事故で体内で出血を起こし、低体温症が加わって死亡した可能性が高い、と指摘した。
高裁は、ほかの証拠と総合評価のうえ、「この鑑定が裁判に出されていたら、有罪判決の事実認定はできない」として再審開始を決めている。
ところが最高裁は、この鑑定を「吉田教授は、死体を直接検分していない」などとして退けた。
しかし、実は「死体を直接見分」した城教授自身が当初の鑑定を見直し、死因を絞殺とする判断を否定しているのだ。当初の鑑定を行った時に、Xさんの転落事故についての情報を捜査機関から一切聞かされていなかった城教授は、事実を知って再度検討を行い、頸椎の出血は首の「過伸展」によるものと修正した。過去の自己の判断に固執せず、新たな事実がわかれば柔軟に結論を見直すという、科学者として実に誠実な対応だった。吉田鑑定は、この城新鑑定を深掘りしたものだ。
最高裁は、その事情を知りつつ、城新鑑定をあえて無視した。
決定では、共犯者の自白やXさんを運んだ人の供述を挙げて吉田鑑定の価値を否定したが、吉田鑑定に疑問が生じたなら、最高裁は疑問点を指摘したうえで高裁に差し戻し、さらなる吟味を求めるのが常道だろう。再審請求は、「(有罪)の言渡を受けた者の利益のために」(刑事訴訟法)に行う手続きなのだ。
それにもかかわらず、弁護側の反論やさらなる立証を封じ、自ら請求を棄却して再審請求を強制終了させたのは、あまりに強権的なやり方と言わざるを得ない。この態度からは、万が一にも無辜(無実の人)を罰する事態があってはならないという慎重さは、みじんも感じられない。逆に、高裁で再び再審開始の決定が出るのを恐れているのではないかと疑いたくなるほど、本件の再審は許さない、という強固な意志ばかりが伝わってくる。
この最高裁決定に対し、弁護側は異議を申し立て、事実認定の誤りのほか、法令適用の誤りも指摘した。
というのは、最高裁決定では、検察側による特別抗告は「抗告理由に当たらない」と明記して退けている。そのうえで、「職権をもって調査」した結果として、破棄自判、すなわち高裁決定を破棄するだけでなく、自ら請求棄却の判断をする結論に至ったとしている。
しかし刑事訴訟法によれば、下級審の決定を破棄自判できるのは「抗告が理由のあるとき」とされている。最高裁自ら「特別抗告には理由がない」と判断したのに、破棄自判したのは間違っている、と弁護側は主張し、最高裁に再考を促したのだ。この異議申立を最高裁に提出し、受理されたのが今月1日。それからほぼ24時間後の翌2日、主任弁護人の事務所に最高裁の書記官から電話があった。
「立件しない」とは、弁護側の指摘に対して、なんらの検討も、判断も、説明もせず、「一切取り合わない」「無視する」ということだ。しかも、その旨を記した書面すら作成せず、電話1本の通告で終わらせるという、まさに「とりつく島もない」態度に終始した。
法令適用の誤りが指摘されているのだから、異議を退けるにしても、せめて最高裁としての考えを示すべきではないか。
その後、原口さんの支援者が要請行動の申込みをしたところ、最高裁から「そのような事件は係属していません」と言われた。最高裁としては、すでに終わった話で、もはや関わりはない、ということらしい。
それだけではない。
最高裁は、裁判所ウェブサイト内の「裁判例情報」に、今回の決定をアップした。このサイトには、裁判所の判決や決定の中から、ごく一部が掲載されるが、どういう事件を掲載するのかといった基準は明らかにされていない。本件と同じように地裁、高裁の再審開始決定を検察側が最高裁まで争った、布川事件や松橋事件の決定は見当たらない。一方、大崎事件については、原口さんが申し立てた請求のほか、元夫の再審請求について長女が申し立てた件についての決定も掲載された。
この長女の請求に対する決定で、原口さんの実名がそのまま掲載されていたのは驚いた。
通常、裁判所の「裁判例情報」では、被告人や請求人のほか、文中に出てくる人命や地名などの固有名詞をアルファベットを使って記号化する。実名が出るのは、上訴した際の弁護人・代理人の名前くらいで、それ以外は徹底した匿名化が図られる。
たとえば、オウム真理教で最初の死刑確定者となった坂本弁護士一家殺害事件の実行犯の2005年4月7日付判決では、被告人の名前が出ていないのはもちろん、教団名まで伏せられている。財田川事件の死刑再審を導くことになった1976年の最高裁決定では、谷口繁義さんの手記の筆跡鑑定を行った香川県警鑑識課員が作成した書面のタイトルを、「Qにかかる再審請求事件に関する筆跡についての検討結果について」と順番に振ったアルファベットを当てはめて、谷口さんの名前を出すのを避けている。
裁判所が判決文で、先輩裁判官の間違いを謝った異例の判決として知られる吉田岩窟王事件の再審無罪判決(1963年2月28日名古屋高裁)も、「裁判例情報」では同様の処理がなされ、謝罪の部分は次のようになっている。
<当裁判所は被告人否ここでは被告人と云うに忍びずA3翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した過誤を只管(ひたすら)陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘(わた)り克(よ)くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫び続けて来たその崇高なる態度、その不撓不屈の正に驚嘆すべき類なき精神力、生命力に対し深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である>
自ら名前を出して戦い、名前が事件名にもなり、裁判所が判決文で謝罪し、いわわば金字塔となった吉田石松翁の名前すら匿名化しているのに、原口さんの実名を掲載するというのは、理解し難い。
ちなみに私自身は、こうした判例集にはできるだけ実名を出してほしいと考えている。特に公人や無罪となって名誉回復したい個人の氏名、オウムのように事件名と結びついた組織的事件の組織名などは、出すべきだろう。ただ、本件の後に掲載された判決では、固有名詞は伏せられており、最高裁が本件をきっかけに実名化へと方針変更をしたわけではない。
しかも、今回の決定は、「犯行に至る経緯」と称し、原口さんについて「勝ち気な性格で、口数も多く」などと否定的に評している。
不都合な事実を無視して強気の姿勢に徹するのはなぜか
メディアの取材に対し、最高裁は「実名かどうかは個別事件ごとに判断している」とし、決定を出した第一小法廷の意見に基づいていることを明らかにしたうえで、本件で実名を掲載した理由を「従来の報道等で氏名が知られている」と述べている。
これでは、なんの説明にもなっていない。問われているのは、名前が公知の事実となっている人についても個人名を伏せていた最高裁が、なぜ今回に限って、有罪判決を受けて再審を求めている者の実名を出す差別的な取扱いをしたのか、という点である。ここでも最高裁は、不都合な問いには答えず、事実上無視を決め込んだ。
最近読んだ本の中に、以下のような一文があった。
<裁判の国民に対する信頼は、裁判の結論それ自体ではなく、その理由によってこそ支えられているのであり、理由の誠実な明記は民主主義国家において説明責任を果たすべき裁判所の義務であると言える>(岡口基一『最高裁に告ぐ』より)
これは、東京高裁判事の岡口氏が、自身が担当していない裁判の判決についての報道を紹介したツイッター上のコメントが、裁判当事者を「傷つけた」として、最高裁が分限裁判を開いた際に提出された、木下昌彦・神戸大学准教授(憲法)の意見書の一部だ。意見書原文に当たってみると、国民の関心が高く、波及効果が大きい事件については、とりわけ結論だけを告げるのではなく、判断の理由を国民が分かるようにきちんと説明すべきだ、と木下准教授は書いていた。その通りだと思う。
事件の種類は異なるが、大崎事件も、今回の決定が大きく報じられ、注目度は高い。それに、最高裁の再審請求についての判断が、全国の裁判所に対して影響を及ぼさないわけがない。だからこそ、判断の理由を丁寧に説明することが求められているのに、本件での最高裁は、不都合な事実や指摘や問いは無視し、理由を説明せずに結論だけをズンズン押し付ける。そんなひたすら強気の姿勢に徹しているように見える。
いったい、それはなぜなのか。
本件では、地裁と高裁の裁判長の訴訟指揮によって、それまで埋もれていた検察側の未提出証拠が次々に開示されてきた。裁判所が強く求めない限り、検察は証拠を出さない。だが、証拠開示に積極的な裁判官ばかりではなく、裁判所の判断には格差がある。そのため、再審請求審でも通常審のような検察側の証拠開示を求めるなど、再審に関する法整備の必要性を語る声は、かつてないほど高まっている。
象徴的な事件となった大崎事件の再審を潰した今回の決定は、こうした再審法整備の気運に冷や水を浴びせた。さらに、再審開始に消極的な最高裁の姿勢を全国の裁判所に示すことで、他の事件でもそうそう再審開始を決定したりしないよう、にらみをきかせる“効果”もあるだろう。
日本では、再審への門は限りなく狭いが、それでもこの10年間に、足利事件、東電OL殺害事件、布川事件、大阪東住吉放火事件、松橋事件など、重大事件の再審無罪が相次いだ。
こうした状況を見て、冤罪を訴える人たちの再審への期待は膨らんでいる。再審法が整備されれば、これまで以上に再審による人権救済が可能になるかもしれない。
一方、法的安定性を重視する人たちは、再審により相次いで確定判決が覆る事態は、秩序維持や司法の権威にとって実によろしくないと考え、今の事態を苦々しく思っているのではないか。
それに、そう遠くない将来、裁判員裁判で有罪判決を受けた人の再審請求が起きることも考えられる。裁判員の辞退者が増えているうえ、裁判員裁判が出した判決の量刑を上級審が変更するだけで批判される状況の中、制度維持に腐心する最高裁としては、裁判員事件で再審が行われる事態は、あって欲しくない悪夢だろう。
ただでさえ困難な再審のハードルをさらに引き上げて、いったん確定した判決が覆りにくくする状況をつくり出すことで、法的安定性を高めたい。「裁判所は間違わない」という無謬神話を再構築したい。司法の権威を強化し、現行制度を維持したい――今回の最高裁の強引な対応からは、そんな意図が感じられてならない。
もはや最高裁は、不当な権力行使から人々を守る「人権の砦」ではなく、自らの権威と制度護持のために「人権救済を阻む砦」と化しているのではないか。本件を巡る最高裁の対応は、そんな危惧を抱かせる。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)
●江川紹子(えがわ・しょうこ)
東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か – 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。
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