参議院議員選挙に向けて自民党が発表した選挙公約には、消費税率10%への引き上げが明記されたほか、憲法改正の実現も掲げられ、「改憲4項目」【※1】が明記されている。その4項目のうち、特に緊急事態条項と9条について、資格試験指導校伊藤塾塾長で弁護士の伊藤真氏にお話をうかがった。
緊急事態条項とはなんだろう。
緊急事態条項とは、東日本大震災のような自然災害など想定しない緊急事態が発生したとき、緊急事態を宣言し、内閣総理大臣や内閣に権力を集中させ、法律に代わる緊急政令を出し、財政支出を行えるようにするものである。また、宣言が有効な間、衆議院は解散されず、両院議員の任期には特例を設ける(自民党草案99条の4参照)【※2】。
法律の制定や財政支出は、平時であれば国会の審議が必要だ。しかし、国会審議を待っていることができない非常事態に政府に権力を集中させて対処しよう、というのが緊急事態条項である。東日本大震災翌年の2012年から自民党草案に盛り込まれた。
しかし、緊急事態条項については、震災を経験した兵庫・岩手・宮崎・福島・新潟・熊本をはじめ33の都道府県の弁護士会(2017年8月時点)が災害対策のための緊急事態条項の創設に反対する表明を出している。伊藤氏は次のように問題点を指摘する。
「東日本大震災で政府の対応によっては救えた命はあったかもしれないが、憲法に不備があったわけではない。災害対策基本法など、緊急事態に備える法律はすでに整備されており、それらの法律の運用で十分に対応できる。どれほど強力かつ完璧な緊急権の制度も、それを上回る危機に対しては役に立たない。政府に権限を集中させるのではなく、災害現場の自治体に権限を与え、災害現場に情報を集められるような訓練が必要だ」(伊藤氏)
実際に、東日本大震災時に特に甚大な被害を被った宮城県気仙沼市の菅原茂市長は、毎日新聞の取材に対し「何らかの法律の不備によって、人の命を救えなかったということは一度もなかった。
自民党改憲案2012Q&Aによると、ほとんどの国の憲法に緊急事態条項が盛り込まれていることを理由として挙げている。
これに対し、伊藤氏は「日本のみならず、各国における緊急権条項の濫用の苦い経験を踏まえて、日本国憲法はあえてこの種の規定を設けなかったとみるべき。非常事態に対応するために包括的な規定にならざるを得ず、権力による濫用の危険性が高い。ナチス独裁の道を開いた戦前のドイツのワイマール憲法をはじめとして、外国の憲法にも緊急事態条項の濫用の歴史しかない」と指摘する。
法律事項で足りるとするか、憲法に盛り込むのか。外国の緊急事態条項では、ドナルド・トランプ米大統領が議会承認を得ないでメキシコ国境での壁建設費を捻出するため「国家非常事態」を宣言し、議会はその宣言を無効にする決議を出したというニュースが記憶に新しい。アメリカでは、非常事態宣言に対して議会や司法でのブレーキが備わっている。日本で緊急事態条項が設けられた場合、濫用されないようなブレーキはしっかりと備わっている制度かどうかを見極めなくてはならない。
自民党の9条加憲案とは憲法改正でもっとも大きな争点は9条の問題だ。自民党内では「1、2項を維持したまま自衛隊を明記する」案が有力だ。
1、2項を維持したまま9条の2で自衛隊を明記するだけなら、現状の追認であり、何も変わることはないのだろうか。
伊藤氏は「そうではない」と強く否定する。今まである法律に新しい法律を追加したら新しい法律が優先する、というのが法律のルールだ。9条1項2項をまったく変えなくても、9条の2という、1項2項と相反する内容を記載すれば、1項2項は死文化してしまう。
少しややこしい話である。伊藤氏は、次のようなたとえ話を挙げて説明した。
「ある会社で社員が酔っぱらって失言するのを防止するため、社長が『社員はお酒を飲んではならない』という社訓9条をつくったとする。
しかし、一切飲んではならないとすると社員から不満の声が上がった。そこで、社長は『必要最小限度のアルコール飲料は酒ではない』との解釈を示した。必要最小限度をめぐっては『ビール1杯くらいなら大丈夫?』『チューハイは?』など議論になってしまった。議論を収めるために、新たに『ストレス解消のために必要なアルコール飲料を飲むことを妨げず』という社訓9条の2を設けた。
社訓9条はそのまま。しかし、社訓9条の2を追加したことで『ストレス解消のため』ならウイスキー1本とかビール5本くらい許される、との解釈ができてしまい、結果的にアルコール飲料は制限なく許されることになってしまった」(同)
伊藤氏は、「1、2項を維持したまま自衛隊を明記する」案は上記と同様の問題が起こると指摘する。
憲法問題は私たちの暮らしに直結する重要な問題だ。しかし、実際の議論はとても複雑でわかりにくい。「実際に憲法が変わったら私たちの生活はどう変わるのか、想像してみることが大切だ」と伊藤氏は話す。
自民党はどのように憲法を変えようとしているのか。改憲したら、何が変わるのか。国家緊急権・自衛隊という権力を追加した場合、それに歯止めをかけるブレーキはちゃんと用意されているか。参院選に向けて、これらの議論を注視したい。
(文=林夏子/ライター)
●取材協力/大阪弁護士会
(大阪弁護士会は、自民党9条改正案に対して日本国憲法の基本原理の一つである恒久平和主義を尊重し、日本国憲法の根本にある立憲主義を堅持する立場から、十分かつ慎重な議論が尽くされることを求める意見書を提出した。2019.7.4)
【※1】「憲法改正に関する議論の状況について」(自由民主党憲法改正推進本部)
【※2】「日本国憲法改憲草案Q&A増補版」(自由民主党憲法改正推進本部)
【※3】「安倍改憲、項目が変遷 緊急事態条項不要論(その2止) 被災地「命救えない」(毎日新聞2016.5.3)