7月6日に埼玉県和光市で行われた、レスリング世界選手権(9月・カザフスタン)の女子57キロ級代表を決めるプレーオフは、リオ五輪63キロ級金メダリスト川井梨紗子(24/ジャパンビバレッジ)が、前人未到の五輪5連覇を目指す伊調馨(35/ALSOK)を倒し、連覇を目指す世界選手権の出場を決めた。今後、川井がカザフスタンでメダルを取れなかった場合には、伊調にも五輪出場の可能性はわずかに残るが、「絶対女王」の五輪自力出場は消えた。

 大接戦だった「世紀の一戦」で伊調のセコンドを務めた田南部力コーチが、審判に対して暴言を吐いたとみなされ退場させられた。事態を重視した日本レスリング協会は近く処分を決定するが、田南部サイドは反論しており、後味の悪い「場外乱闘」が残った。

試合結果は覆らず

 問題の場面は第2ピリオド。伊調が寝技の攻防で有利な体勢になって川井を攻め続けていたが、審判に止められて両者立ち姿勢からのスタンドでの再開が命じられた。これに田南部コーチが激高し、まず審判からイエローカードが示された。さらに1-1からの残り1分、伊調が素早く川井の右足を取る。ピンチの川井はもつれながらも伊調の腰に左足をかけて相手の体を制し、横向けの伊調の左腕も完全に決め伊調の体を起こした。川井に2つの2ポイントが認められ、危機を脱した伊調はすかさずバックを取り1点返す。

 掲示板表示が5-2になったが、伊調サイドがチャレンジ(ビデオ判定を求めること)を要求。この時、再び激しく抗議した田南部氏はレッドカードを受けて即刻退場となった。マットに上がり審判に暴言を吐いたとされたのだ。

 一方、チャレンジは通り、2つ目の「2ポイント」は認められず、川井の得点が3点に戻され、3-2へ。

緊迫の試合は残り3秒、伊調が川井の右足を取って場外へ押し出して3対3とした時点で試合終了。規定により1回で2点以上(ビッグポイント)のあった川井の勝利となった。主審は川井の手を上げ、両選手はマットを降りた。この時点で確定した勝敗は覆らない。

 だが試合後、田南部コーチは「判定がおかしい場面があった。ポイントを取ってもらえず伊調本人も試合中、心が折れた場面があった。今回はジャパンビバレッジ有利の判定がひどすぎる。選手は一生懸命やっている。いい勝負が台なしになってしまう」と怒り、UWW(世界レスリング連合)に提訴することも示唆した。「川井選手側」と言わず「ジャパンビバレッジ側が」と言うあたり、協会が恣意的に伊調選手を不利にしていると言いたいようだ。福田富昭協会長は同社の前身の社長だった。

 一方、協会の斎藤修審判委員長は「試合全体はクリーンでいい試合だった。

不満なら協会を通じて言えばいい」とジャッジ内容に問題のないことを報道陣に説明した。しかし青森県の八戸クラブで伊調を子供の頃から指導した沢内和興氏は「冷静に試合の映像を見直し、所属(=ALSOK)とも話をしてから考える」と、県協会を通じ抗議する可能性も示唆した。

 さて、田南部氏がなんと言ったのか。現在、審判委員会が調査中だが「赤(伊調)の2点だろ」「普通にやって」「よく見ろよ」などと言ったとされるが、もっと下劣な言葉を使った可能性もあるという。

柔道なら抗議しない。伊調の「権威」を笠に着た奢り

 7月21日に、協会の役員会で処分を決める。世界レスリング連合の規則ではレッドカードが出された場合は、約22万円の罰金、さらに最低3カ月、最長3年の出場停止とされ、ある協会幹部は「お咎めなしで処分がないことは考えられない」と話す。

 火をつけたのはイエローカードを受けた、最初に審判が両者を立たせた時だ。しかしこれは「明らなポイントが認められなかった」ではなく、「審判に中断されなければ得点になった可能性が高い」の類いでしかない。柔道でも寝技に入った場合、動きが止まったと判断された時点で審判が両者を立たせ、立ち姿勢の攻防から再開させる。この判断は審判に任されるため、「足を抜いて押さえ込む直前だったのに」など有利な体勢だった選手や、寝技の得意な選手が不満を持つことも多々ある。だからといっていちいち抗議などしない。

 前述の幹部は「プレーオフの審判は一流の人ばかり。審判が2人を立たせたのはおそらく、伊調選手が川井選手の足の甲と裏をつかむ反則になりかけていたかからではないか。伊調選手はああいう体勢からポイントを取ることが多く、田南部は怒ったのでしょう」と見る。田南部氏をよく知るこの幹部は「情熱的で悪い男ではないが、伊調選手にオリンピック4連覇させたことで、自分が誰よりも優れた指導者だという自負が強くなってしまったようだ」と吐露する。レッドカードは国内では過去にも2度ほどしかなく、ここ10年くらいなかったほどの重大な違反行為だ。

 レスリングは格闘技らしく血気盛んなコーチたちも多い競技だが、みんな不満があっても我慢して審判団に敬意を払い、ルールを守ってきたのだ。審判団に対する敬意を失っているとしか思えない田南部氏の姿は、国民栄誉賞の伊調の「権威」を笠に着た「俺なら許される」に近い奢りでしかないだろう。

(文・写真=粟野仁雄/ジャーナリスト)

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