1827年に世を去ったベートーヴェン。大作曲家に似つかわしくない質素な部屋に住み、持ち家や土地などは持つこともない人生でした。

しかも、金銭的に手のかかる弟たちに苦労し、貧困のなかで人生を去ったように考えられています。それが、彼の「苦悩を突き抜け、歓喜に至る」というモットーも手伝い、清貧な努力家のイメージで後年に伝えられてきました。

 こんなエピソードがあります。ベートーヴェンはあまりにもひどい身なりで街中を歩いていたために、浮浪者と間違われて警察に捕まってしまうこともあったそうです。しかし、実際は、ひどい身なりをしていたのはベートーヴェンがただ単に服装に無頓着だっただけで、生涯独身を通した彼を誰もコーディネートすることはなかったのです。

 ところが、彼の死去の際、親類縁者が集まって遺産を調べてみて、みんな驚いてしまいました。なんと当時のお金で1万グルテンも残していたのです。それは高額遺産額ランキング上位5%に入るほどで、その大部分はオーストリア国立銀行の株券でした。つまり、国立銀行の大株主でもあったのです。

 ベートーヴェン以前の作曲家は、宮廷のお雇い音楽家になるのが唯一の生計の立て方でした。あの自由奔放なモーツァルトでも、当時ヨーロッパで強大な勢力を持った、オーストリア・ハンガリー帝国の宮廷作曲家でした。ドイツのボンに生まれたベートーヴェンがウィーンに出てきたのは、1792年。

先人たちと同じく宮廷に職を求め、そして貴族階級の両家の子女のピアノ教師として収入を得ようとしたのは当然のなりゆきでしたが、時代が良くありませんでした。

 ベートーヴェンがウィーン移住する1年前に亡くなったモーツァルトと大きく違うのは、1796年にフランスのナポレオンが事実上の戦争を始めてから、ウィーンの王侯貴族にとってはもはや音楽どころではなくなっており、それどころか国自体が経済危機に陥ってしまったのです。政府は紙幣をどんどん発行し、ナポレオンが再婚したオーストリア皇女マリー・ルイーズとの間にナポレオン2世が生まれた1811年には、とうとう10億グルテン紙幣が発行されるほどハイパーインフレが頂点を迎え、オーストリア経済は破綻。通貨単位が一晩で5分の1に落ちる騒ぎになりました。結局、貨幣価値は10分の1にまで下がり、王侯から民衆まで財産が大きく目減りしたのです。それは、土地や持ち家を持たなかったベートーヴェンにとっても大損害でしたが、それでもなお、巨額の財産を残したのです。

 ここで強調しておきたいのは、この話は彼の崇高で偉大な音楽とは関係がありません。どちらにしても、彼の音楽の素晴らしさは文字に書けるものではありませんので、是非、ライブコンサートでその素晴らしさを体感していただきたいと思います。とはいえ、あの有名な『第九』の初演コンサートのあとにベートーヴェンが最初に気にしたのは、曲の評判や出来ではなく、収支がどうなったかだったのです。

ベートーヴェンの卓越したビジネスセンス

 ベートーヴェンは、作曲家としての時代には恵まれたとはいえません。当時の作曲家にとっては、王宮に勤めるどころか活動すら困難な時代で、後年伝えられているように、「ベートーヴェンは、王侯貴族に頼らなかった最初の作曲家」というのは、彼自身が望んだというよりも、時代がそうさせたのだともいえます。ベートーヴェンの少し後に生まれた作曲家シューベルトなどは、貧困に喘ぎ、生涯で書き上げた8つの交響曲のどれひとつも公開で演奏する機会がなかったくらいです。

 そんなベートーヴェンとシューベルトとの大きな違いは、ビジネスセンスです。演奏会を自分で開催し、収入を得る大胆なイベント企画能力。複数の楽譜出版社と交渉し、一番有利な契約をする粘り強い交渉力。そして、有力なパトロンに作品を献呈したりしながら、大きな援助を得るしたたかな集金力。たとえば、ベートーヴェンは『第九』をプロイセン(ドイツ)王に献呈していますが、その際にもらった300グルテンの指輪が成果でした。当時の宮廷音楽家の月給が60グルテンだったことを考えると、5カ月分の生計を得たことになります。このような当時の貨幣価値を知れば、彼が遺産として1万グルテンを残したことがどれほどすごいか、よくわかります。

 しかし、彼の本当に偉大なところは、お金儲けのために自分の音楽スタイルを変えることは一切なかったという点です。たとえば、スコットランドの出版社トムソンから、スコットランドやアイルランドの民謡180曲の編曲を、1曲につき6グルテン、合計約1000グルテンで請け負った際も、編曲であったとしても決して手を抜くことなく、素晴らしいできばえの楽譜を後世に残しています。そして、経済的な報酬を得ただけでなく、ベートーヴェンが、遠い英国の音楽を知る機会となりました。テレビドラマ『のだめカンタービレ』(フジテレビ系)で有名になった『交響曲第7番』は彼の名作中の名作ですが、特に、第1楽章と最終楽章の音楽はアイルランド民謡の影響を強く受けており、全9曲のベートーヴェンの交響曲のなかで異彩を放っています。

 ちなみに、『交響曲第7番』は、オーケストラ編成がコンパクトなので、楽員数はそれほど必要とされず、したがって人件費が押さえられるので、ビジネス的にもコストを抑えることができる作品です。

『のだめカンタービレ』での大ヒットは、日本のオーケストラにとっては、ありがたい話だったのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)

●篠﨑靖男
 桐朋学園大学卒業。1993年アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで最高位を受賞。その後ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクール第2位受賞。
 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後、英ロンドンに本拠を移してヨーロッパを中心に活躍。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、BBCフィルハーモニック、ボーンマス交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、フィンランド放送交響楽団、スウェーデン放送交響楽団など、各国の主要オーケストラを指揮。
 2007年にフィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者に就任。7年半にわたり意欲的な活動でオーケストラの目覚ましい発展に尽力し、2014年7月に勇退。
 国内でも主要なオーケストラに登場。なかでも2014年9月よりミュージック・アドバイザー、2015年9月から常任指揮者を務めた静岡交響楽団では、2018年3月に退任するまで正統的なスタイルとダイナミックな指揮で観客を魅了、「新しい静響」の発展に大きな足跡を残した。
 現在は、日本はもちろん、世界中で活躍している。ジャパン・アーツ所属
オフィシャル・ホームページ http://www.yasuoshinozaki.com/

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