政治的なスタンスに賛否はあろうが、百田尚樹氏が同時代を代表するストーリーテラーのひとりであることを疑う人は少ないだろう。百田氏は6月、作家を引退すると宣言したが、またぜひ小説を書いてほしいと期待している人も数多いはずだ。
その百田氏が最近、ツイッター上で自民党の杉田水脈衆議院議員を辛辣に批判した。そのきっかけとなったのは、10月11日に発せられた以下の杉田氏のツイートだ。
「そしてお昼は、女性議員飛躍の会。講師に八幡和郎先生をお迎えし、皇室についての勉強会を行いました」
このツイートには、八幡和郎氏の著書『「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か』(以下、「八幡本」と略称)の表紙のアップ、出席者の着席風景、出された食事などの画像が同時にアップされている。八幡氏は自民党の勉強会に講師として呼ばれて、皇室について講義を行った。そのときに八幡本が配られて、それを杉田議員がツイッターにアップしたという流れである。
これを見た百田氏が、次のようにツイートした。
「八幡和郎が私を攻撃した本を堂々とアップしたということは、この女性議員、はっきりと私を挑発しているんやな。あるいは宣戦布告か。なるほど、なら、その挑発に乗るわ。これまでは武士の情けで言わなかったことも今後は出す。関係ないけど、実物とまるで違うアイコンはどういうつもりやねん」
このあとには、杉田氏の容姿にまで言及する罵倒ツイートが続いた。
これらだけ見ると過剰反応に思えるが、百田氏が怒りを爆発させたのには理由がある。
大ベストセラーとなった百田氏の著書『日本国紀』(幻冬舎)は、出版当初から賛否両論が渦巻き、大きな論争となっていた。賛成派からは、「歴史書としては例外的なほどおもしろく、分厚いのに短時間で読めた」「日本史を考え直すきっかけになった」など賞賛の声が上がった。反対派からは「間違いが多い」「Wikipediaからの剽窃が散見される」などの批判があった。
そんななか、官僚出身の評論家である八幡氏の本が出版された。百田氏と対立しているリベラル派からならまだしも、保守的な立場の八幡氏からの批判だったためか、百田氏は敏感に反応。八幡氏の出版予告のツイートを引用して、百田氏は次のようにツイートをした。
「この人物、『日本国紀』が出た直後から、重箱の隅をほじくるようにネットで私の本の悪口を書きまくり、『本当の歴史が知りたければ俺の◯◯という本を読め』と必死で誘導していたが、とうとう、露骨に小判鮫本を出版か。歴史家を名乗っているなら、他人の本に乗っからずに堂々と自分の本を書けよ」
百田氏が指摘したのは、八幡氏によるブログサイトの記事のことだ。八幡氏は『日本国紀』がなぜ売れたかを箇条書きにまとめたあとで、内容について以下のような10の疑問を提示している。
(1)万世一系を否定している
(2)大和朝廷が任那を領土とし百済を従属的な友好国としていたという歴史的な主張を否定し、かなりのちの時代まで九州王朝が主体でないかとし、百済を植民地のようなものだったとしている
(3)足利義満暗殺説など陰謀史観的な記述が多い
(4)日蓮やその宗派とか陽明学とかが出てこないなど宗教や思想についてアンバランス
(5)江戸時代の封建制や鎖国のデメリットへの認識が不十分
(6)尊王攘夷が維新の原動力となったことの意味を理解しておらず極端にアンチ長州である
(7)学校制度が典型だが明治維新と文明開化への評価が極端に低い
(8)さきの戦争について、「日本だけが悪いわけでない」ならともかく「日本は悪くない」に傾きすぎて、海外で修正主義の烙印を押されるリスクが高い
(9)ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代について暗黒時代がごとき評価になっている
(10)日本人の国防意識の低さへの批判は正当だが、それを占領軍の責任に押しつけすぎ
八幡氏は、『日本国紀』を「百田版の日本通史」として高く評価しながらも、本のタイトルを『日本書紀』に寄せておきながら、『日本書紀』の記述を否定していることについて明確に批判している。上の10点のうちの(1)がそれである。
八幡氏は、百田氏の作家としての能力を認めているからこそ、「『日本書紀』の否定」がこのまま広く浸透することに危機感を覚えていることがわかる。
ところが、百田氏はさらにこっぴどく批判した。
「八幡和郎という東大出の元官僚で、選挙に落ちまくり物書きになった男が『日本国紀』の小判鮫本を出すらしい。『日本国紀』が出た直後からネットで悪口を書きまくり、本当の歴史が知りたくば俺の本を読めと必死で誘導していたが、ついに寄生虫の本を出版か。 物書きとしてのプライドはないのか!」
百田氏は八幡本を「寄生虫の本」と侮辱するが、「単なる寄生虫の本」と罵るのは、いささか乱暴すぎるだろう。
ついでながら、杉田議員の画像も、写真アプリで多少美化している可能性もないではないが、わざわざ手動で加工したものとは思えない。写りの良い画像を選ぶくらいの自由は許容してもいいのではないか。
ただし、両者の対立点は単純かつ根本的である。
そこには、戦後に否定された歴史を掘り起こしたいと願う八幡氏と、八幡氏よりも戦後教育・リベラル寄りに通史(特に古代史)を描いた百田氏という対立がある。八幡氏は『日本国紀』が、さらに普遍的価値を持つにはどうしたいいのかを考えた上で、「『日本国紀』というタイトルをつけるのなら、『日本書紀』の記述を信じて万世一系を認めるべき」と主張したのである。
だからこそ、百田氏と八幡氏が同じ土俵で本格的に論戦すれば、日本史を考える上で、かなりおもしろい論点が浮かび上がるはずだ。
百田氏が『日本国紀』で成し遂げたのは、日本人が日本に誇りを持てる日本史を書き上げたことだ。そこには良くも悪くも百田氏一流の“独善性”がある。その独善性が読む者を百田ワールドに引き込む魅力の源泉であり、読む者おのおのがその世界に浸った上で、日本という国を成立させる本質をつかみとるきっかけを与えてくれる。
ただそれでも、そこには『日本書紀』をフィクションと切り捨て、万世一系を否定した戦後歴史観が根強く残っている。それだけではなく、アカデミズムとは一線を画す歴史小説家の司馬遼太郎氏や、歴史を推理小説のように読み解く井沢元彦氏などの作家の影響も色濃い。ともすれば、そういった要因は、日本を愛そうとする保守的な歴史観の土台に、いらぬ不安定さを与えるかもしれない。それを是とするか非とするかは、日本史を考える上では重要だろう。
だが、残念なことに、百田氏の立場から八幡本の内容に対する反論が出てきていない。上のツイートのように「便乗商法だ」「表紙がパクりだ」などの枝葉末節の批判ばかりである。
八幡本の表紙と百田本の表紙を見比べると、まったく似ていないとはいわないが、「パクり」はさすがに言い過ぎである。私から見ると、「両者が関係していることがわかるくらいのデザイン的な処理がしてある」くらいのレベルだ。
そういった周辺事項をいくら指摘したところで、八幡氏の提示した論点にはなんの影響もない。いわんや、自民党の勉強会で八幡氏の本が配られ、それを一国会議員が画像でアップしたくらいで、あたかも全否定されたがごとく容姿にまで言及して批判するのは明らかにやりすぎである。
百田氏も八幡氏も、そしてもちろん杉田議員も、我が国にとって重要な方たちである。なれ合う必要などはないが、ぜひ議論は建設的にやっていただきたい。寄って立つべき「愛すべき国家」という土台は共通しているのだから、小異にこだわるのは国益を考えても得策ではない。
(文=茂田譲二/ジャーナリスト)