新型コロナウイルスに感染し、合併症の肺炎により亡くなった志村けんさん。荒井注さんに代わって1974年にザ・ドリフターズの正式メンバーとなり、『8時だョ!全員集合』の「東村山音頭」でブレイクすると、その後は「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ~」などのヒットギャグを連発し、日本中の人気者となっていった。
その芸風は実に多彩だった。加藤茶さんにツッコんだかと思いきや、いかりや長介さん相手にボケをかます。ツッコミもボケも一流で、コントにおける「間」も抜群。志村さんが加入する前のドリフターズの“エース”は加藤さんだったが、それはいつしか志村さんに変わっていった。
いかりやさんは、自伝『だめだこりゃ』(新潮社)で、次のように記している。
「笑いに関しては素人の集まりでしかなかったドリフだったが、今思えば、この志村だけが、本格的なコメディアンの才能をそなえていたのかもしれない」
『笑っていいとも!』で異例の“出演拒否”お笑い芸人には、その人本来の「素」が垣間見える瞬間がある。トーク番組が全盛の近年は、お笑い芸人が「素」を見せることも珍しくなくなったが、志村さんの全盛期は「舞台やスタジオでのコント」が主で、お笑い芸人の「素」の部分が見える瞬間は今ほど多くはなかった。
それだけに、「素」が見えると、その人の楽屋裏での話し方や雰囲気などが想像できておもしろかった。そして、普段との落差が大きければ大きいほど、印象に残るものだ。テレビで見せる顔と、時折見せる「素」の部分の落差が大きい芸人が、志村さんだった。
初めて志村さんの「素」が垣間見えたのは、『笑っていいとも!』の人気コーナー「テレフォンショッキング」だ。1992年、桑野信義さんからお友達紹介で電話を受けたにもかかわらず、志村さんは出演を断った。
タモリさんの「明日なんですが、大丈夫ですか?」との問いかけに「ダメです」と即答。観客の爆笑を誘った直後、「明日はゴルフなんですよ」との声が聞こえてきた。それは、コントで見せる志村さんのトークとは異なる「素の声」だった。
脇役に徹した『紅白歌合戦』次に印象深いのが、2001年の『NHK紅白歌合戦』出演だ。この年の目玉として、ドリフターズは「ドリフのほんとにほんとにご苦労さんスペシャル」を歌唱した。当時のドリフターズは唯一のレギュラー番組だった『ドリフ大爆笑』の放送が終了しており、5人での出演は久々だった。
ここでも、「コントの志村けん」とは異なる表情だったのが印象に残っている。『志村けんのだいじょうぶだぁ』など自身の冠番組では中心的存在となるが、5人全員での出演で、しかも歌番組。当然ながら、「東村山音頭」以外は脇役となる。普段のコントやバラエティとは異なる空気で、志村さんの表情はどことなくやりにくそうにも見えた。そんな「素」の部分が浮かび上がった生放送の『紅白』も、視聴者にとっては貴重な瞬間だった。
『ドリフ大爆笑』での敬語ににじみ出る人柄3つめの印象的なシーンが2003年、いかりやさんが死去する3カ月ほど前に『ドリフ大爆笑』のオープニングを20年ぶりに5人で撮り直した際のシーンだ。
このシーンはいかりやさんの最後の仕事として、またドリフターズが5人揃った最後のシーンとして流れることが多いが、志村さんの礼儀正しさが表れている瞬間でもあるだろう。そうした志村さんの「舞台裏での素顔」も、ファンにとっては貴重な姿だった。
コントにおける才能があふれていただけに、たまに見える「素」も、志村けんという芸人の持ち味であった。合掌。
(文=稲垣翼/テレビウオッチャー)