「親の背中を見て子は育つ」とよく言われるが、実際、親族に社長の座を継がせようと、小さい頃から帝王学を授けているケースは少なくない。環境が経営マインドを育成するという論は決して間違ってはいない。

だが、この判断が、必ずしも好ましい結果を生むとは限らない。それは、すでに数々の失敗例が証明している。

 世襲を行う場合には、親ばかであってはならないとわかってはいるものの、血がつながる人には心通じるものがあるし、親族を応援したいと思うのは人情でもある。だが、それが思わぬ不幸を招きかねない。親族以外の社員に対しては、あら探しをしていると思えるほどの減点主義を適用しても、子息や兄弟の場合は良いところばかりに目を向けがちで、危機管理がおろそかになる。その結果、夢が膨らみ期待値が高くなり「彼ならうまくやれるだろう」と甘い見通しをするのだ。実力のある創業者でも、いつも正しい意思決定ができるとは限らない。「最後の大仕事」をしくじることさえある。

 戦後、焼け跡の闇市から乾物と輸入品の販売を行う清水商店を立ち上げ、それを母体として1956年に清水實業(現ライフコーポレーション)を創業、スーパーマーケットのライフを全国展開し食品スーパー日本一に育て上げた清水信次も、後継者問題で苦労した経営者の一人である。

 82年2月、ライフコーポレーションが大阪証券取引所(大証)2部に上場したのを機に、清水は後継社長として実弟・三夫を任命し、代表取締役会長になった。三夫は、同志社大学を卒業後、清水商店に支配人として入社した。清水が東京でパイナップルやバナナの輸入に奔走していた間、大阪で清水商店を守り、清水實業設立時には営業担当として参画し、事業拡大に貢献した。
ライフの創業に際して、雪印乳業の視察団に参加して欧米を回り、店のコンセプトづくりに大いに力を発揮したほか、その後も清水の片腕として経営を支え続けた。つまり創業以来、苦楽を共にした最も近い部下である。それだけに、周囲にとっても納得性の高いトップ人事だった。

●バブルに乗り、財テクに走る

 このとき、店舗数は50にまで増え、83年に東京証券取引所(東証)2部に、翌年には東証・大証1部に上場した。就任して最初の1年ぐらいまで、三夫は清水に経営状況を報告し、重要な意思決定については相談し許可を得ていた。ところが、業容が急拡大する中で「社長」と呼ばれる響きに酔ってしまったのだろうか、三夫はすっかり違う人になってしまったのだ。まったく清水に業務報告することもなくなり、本業の店舗経営よりも財テクにうつつを抜かすようになった。

 清水がこのことを知ったのは85年、住友銀行(現三井住友銀行)創業90周年パーティーの席上だった。そこで、ライフ担当の同銀行常務から、「第1回の融資は終わりましたが、第2回目のご要請のあった件は今やっております」と報告を受けた。三夫に権限委譲するため、役員会にも顔を出さなくなっていた清水にとっては、まさに寝耳に水である。その常務に聞くと「同業の他社株をお買いになるということで40億円を融資した」と言い、清水の耳にも入っていたと思っていたようである。清水はこの融資を白紙撤回し、三夫に浮利を追うような株式投資はやめて店舗の立て直しに資金を回すよう促した。
しかし、三夫は聞く耳を持たなかった。

「兄さんは時代遅れなんや。今は、コンニャクや豆腐や大根を売って、1円、2円の利益を争っている時代やない。頭で金儲けをする時代なんや」

 三夫の反論が正しく聞こえるかのように、86年、87年と「バブルの歯車」は好転していく。清水の制止もむなしく、三夫はますます勢いづいた。しかし、結果は歴史が物語っている通りである。「こんなバカ騒ぎが長く続くわけがない」とバブルの崩壊を予見していた清水は、社長の更迭を決断した。88年3月15日、6年ぶりに会長として出席した役員会の冒頭で清水は、社長を解任し自ら会長兼務の社長に返り咲く特別決議を動議したのだった。会議はもめたが、6対5という僅差で可決された。その直後に清水は、事前に作成しておいた取締役会議事録で社長交代の登記を済ませた。翌日、大阪の50ほどあった全店舗と配給センター、食品加工場を見て回った。ひどく荒れた実態を目の当たりにして「これは自分でやらなければ」という思いがこみ上げてきた。


 この苦渋の決断を振り返り、清水は正直な感想を吐露した。

「弟には、かわいそうなことをしたと思いました。社長にしなければ、あんなことにはならなかったのにと思っているぐらいです。ただ、本人の素質もあるからね。100%私が悪いともいえない」

 社長に復帰した清水は怒涛の出店を始めた。8年間で132店舗を出店し、一躍下位から食品スーパー首位に躍り出た。財テクに走る前社長の姿を見ながら会社の行く末を心配していた役員たちの思いが、本業回帰に向けて猛烈に働く清水を後押しした。だが、「己を知り、足るを知り、終わるを知る」を心得ていた清水は、実弟の更迭、社長復帰を経て、「身内だから社長に」という世襲人事の思い込みによる怖さを身をもって知り、後継者選びについて、より深く考えるようになっていた。

●「天才」ダイエー・中内功の死角

 できる人を見つけて、その人にふさわしい機会や場所を与える。経営者がその人を育てるのではなく、与えられた人は自力で育たなければいけない。そして、自分の思いを代わって実現してくれているかどうかを見張るのが、経営者の最も重要な仕事である。これをできるか、できないかが、経営者の器の大きさを決めるのだ。
企業の大中小を問わず、トップ自ら手を出す人がいるが、それでは全体が見えない。人は得てして枝葉が目に付き気になるものだが、そうすると木が見えなくなり、ましてや森を見ることはできない。しかし、大所高所から見れば全体が見える。器用貧乏という言葉があるが、器用な人は小事が見えて、そこへのこだわりが生じる危険がある。だから、かえって不器用なほうがいいのだ。

 創業者の存在が重すぎたがゆえに破綻を招いた象徴がダイエーだろう。一代で巨大小売りグループを築き上げた中内功(正しくは、たくみへんに「刀」)は、90年代に長男の潤(元副社長)にバトンタッチを考えたが、低価格商品の開発やハイパーマートの多店舗化政策など潤が進めた戦略がことごとく失敗し、辞任に追い込まれた。

 中内は、後継者を育てるという意識が、どうしても希薄になっていたと考えられる。また、強烈なカリスマ経営者であったがゆえに、反発する役員は去り、残った者たちは自ら行動しようとはせず、中内の言葉を条件反射的に受け入れる癖がついていたのではないだろうか。このような環境下で同族経営を行ったとしても、子息の影響力が弱くなり、情報すら集まらないという状況を招くことだろう。

●慎重に外部から社長を登用

 清水は同じ戦中派で苦労した同世代として、またスーパーの先輩として中内を尊敬し、その経営手腕を高く評価していたが、後継者問題については意見を異にしていた。

 清水が後継者選びについて確信を得た時、「岩崎(高治)君をイギリスで見つけたものだから、帰ってきてすぐ三菱商事の社長に会い、『一緒に仕事をしたいから、リバプールにいる岩崎君をすぐ呼び戻して、うちの会社へ出してもらいたい』と頼んだ」という。
しかし、岩崎は将来を嘱望された期待の星だっただけに三菱商事も手放したがらず、交渉し始めてから2年後、32歳になった岩崎をライフに迎えた。それから7年間、岩崎は食品スーパーの仕事を勉強し、経営者への道を歩んでいった。

 そして清水は、「自分の器量と年齢から見て、もうここで自分は辞めるべきだと判断しました。上場会社でも、あるいは個人でも、自分より優れた人を据えるのが常道ですが、私的欲望もあり、それがなかなかできない。岩崎君は当時39歳だったけれど、私は70歳を超えて自分の限界が見えてきたのと、ちょうど心臓の手術をしなければいけない時期に来ていたので、そろそろ、自分より優れたものを持っている人を後継者に据えなくてはいけない」と考えるようになった。清水は、その条件を満たす後継者を探していたのだ。その結果、断行されたのが2006年3月のトップ人事である。三菱商事から持分法適用会社になったライフコーポレーションに出向していた岩崎を代表取締役社長兼COO(最高執行責任者)とし、自身は代表取締役会長兼CEO(最高経営責任者)となった。

 三菱商事が清水の申し出に難色を示した最大の理由は、39歳という年齢だ。三菱商事だと、まだ課長になるかならないかぐらいの者が、従業員3万人で200店舗もある1部上場企業の社長を務めた場合、何か事故が起こったときに、三菱の看板に傷が付くと心配され、「これはちょっと無理な相談だ」と難色を示された。だが清水は、「絶対大丈夫です。そのときは私が命を懸けて岩崎さんを守ります。
一指も触れさせません。まして商事の傷になるようなことが起こらないよう、私が責任を持ちます」と断言した。

 結果的にこのトップ人事は三菱商事からも理解を得、その後、ライフの経営に良い影響を及ぼすようになった。ちなみに、現在は三菱商事の現役社員が出向しているため、ライフは三菱商事に乗っ取られたと勘違いしている向きもあるかもしれないが、むしろ、小が大の力を活用し、ベストプラクティス(最も効率のよい手法)を可能にしようとしたのだ。例えば、ライフが三菱東京UFJ銀行から融資を受ける際、三菱グループ各社と同じ低い金利を適用されるようになり、無用の預金を持つ必要がなくなる利点が生まれた。

 痛い経験を糧に、身内にこだわらない後継者選びをした清水の賢明な判断だったといえよう。
(文=長田貴仁/岡山商科大学教授、神戸大学経済経営研究所リサーチフェロー)

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