■「正直、あぶらとり紙は宝くじに当たったようなものでした」
黒髪でおちょぼ口の手鏡に映る女性――「よじこ」という愛称で親しまれてきたロゴマークは、長年にわたり京都土産の定番として、多くの人に愛されてきた。
その「顔」が、この春、大きく変わることになった。
2025年3月26日、よーじやは60年ぶりとなる企業ロゴのリニューアルを発表した。手鏡の中にいた「よじこ」の姿は消え、デザインはシンプルな文字と手鏡のシルエットに変更。そして、「よじこ」が手鏡から抜け出した新キャラクターも誕生し、大きな話題を呼んだ。
このニュースを受けて、ネット上には「昔のデザインが京都っぽくて好きだったのに」「新キャラは修学旅行生にウケそう」「ロゴを変えるなんてリスキーでは?」といった、賛否両論が飛び交った。
それほどまでに人々の反響を呼ぶよーじやの代名詞といえば、あぶらとり紙である。1店舗で1日1200万円を売り上げたこともあるという。そのほとんどがあぶらとり紙の売り上げだった。
しかし、その繁栄の裏で、実情は大きく揺らいでいた。
「正直、あぶらとり紙は宝くじに当たったようなものでした。
そう率直に語るのは、よーじやグループ5代目代表・國枝(くにえだ)昂(こう)さんだ。國枝さんは、家業を継ぐ以前、監査法人に勤めながら公認会計士を目指していた。家業に関して、父からはほとんど何も知らされておらず、「よーじや」に関する情報はどこからも得ていなかったという。
そんな折、2018年末、銀行から「経営状況が悪化している」と連絡を受けたことで、初めてよーじやの危機を知った。実は、それまで赤字が続いていることを内部で認識しているにもかかわらず、誰も手を加えなかったという。
経営の内情を知るにつれ、國枝さんは「うっすい会社だな」と感じざるを得なかった。しかし、まだ自分が戻るタイミングではないと思っていた。よーじやに戻るとしても、10年、20年先のことだろうと考えていた。
ところが、2019年2月に先代である父が病に倒れ、状況は一変。同年8月、國枝さんは29歳という若さで代表取締役に就任することとなった。
■家業を継いで、会社の現状を知る
「父が倒れなければ、公認会計士の最終試験を受ける予定でした。僕はずっとよーじやの蚊帳の外で、なんにも会社のことを教えてもらえなかったんです。
ただし、現実は想像以上に厳しかった。
売り上げの問題だけではない。改革を進めようとしても、社内の空気は重かった。古くからの幹部たちは、國枝さんの話に無反応。反発すらなく、沈黙だけが広がっていた。
「当時、よーじやのことを本気に思っている人もいなくて、残念でしたよ」
社長が代替わりすることは受け入れられていた。けれど、それ以上の変化を期待する空気はなかった。
よーじやは1904年(明治37年)、「國枝商店」として創業。京都の人たちの日用品をはじめ、歌舞伎役者や芸妓、舞妓といった芸能関係者にも白粉や紅を販売していた。
その後、日本に歯ブラシが普及し始めると、店でも扱うようになった。当時、歯ブラシは「ようじ」と呼ばれており、それが転じて地元では「よーじやさん」と親しまれるようになる。
「あぶらとり紙」が誕生したのは1921年ごろだ。
■京都土産の定番になったあぶらとり紙
1989年、國枝さんが生まれたころ、よーじやはあぶらとり紙ブームの真っ只中だった。
「小さい頃から、近所の店や塾に行くと、挨拶がわりに『よーじやの子で、えーなー』と言われました」
「えーなー」と言われる理由は明らかだった。
1983年にスタートしたテレビドラマ『家政婦は見た!』では、市原悦子さんがよーじやのあぶらとり紙を人と取り合うシーンが放送された。そのとき表紙にデザインされた「手鏡に映る女性像」が画面に映し出されたのだ。このインパクトが絶大で、よーじやの知名度は急上昇。あぶらとり紙は観光客の「購入必須アイテム」となり、京都土産の王道として定着していった。
ピーク時には1店舗で1日1200万円の売り上げがあったが、そのほとんどがあぶらとり紙だった。当時、あぶらとり紙は1冊20枚入りで300円だったので、数万冊が売れたことになる。そんな爆発的な売れ行きが、「よーじやの息子=安泰なぼんぼん」と見られていた理由だ。
一方、國枝さんの家庭内は順風満帆とは言えなかった。父はほとんど家におらず、兄弟のいない國枝さんは母と二人で過ごす時間が長かった。父親から家業について聞くことはほとんどなく、店を訪れることもない、だから従業員とも接点がなく育った。
「周囲からは『一人っ子やし、家業を継ぐんやろ』と言われました。でも、ぼく自身はよーじやのことをほとんど知らないし。そのギャップに違和感しかなかったですね。当時は、よーじやの人間だっていうことを嫌だと思ってたんです」
■少年時代に抱いた地元との距離感
もう一つ、國枝さんの心に引っかかっていたのは、地元京都との距離感だった。
京都には、同業者同士が組合などを通じて支え合い、地域の行事にも自然と関わっていく文化がある。老舗の子どもはそうしたなかで育ち、地域の一員としての自覚が育まれていく。しかし、少年時代の國枝さんは少し違った。
「祖父は同業者組合の会長をしていたと聞いています。でも、父はいつのころか、組合を辞めてしまって。
國枝さんが育った環境の中に、地域行事や老舗同士のつながりがないこと――これが國枝さんの感じていた距離感だった。常に京都との間に「薄い膜」のようなものがあった。
「『いつも父がお世話になってます』みたいなこと言いたかったですね。京都の街に暮らしているのに、その輪の中に自分はいなかったんですよ」
■公認会計士を目指していたが……
「こんな幼少期だったので、子どもの頃の記憶ってあんまりないんです……」と語る國枝さん。けれども、小学生の頃から野球が大好きで、特に松井秀喜選手に憧れていたという思い出を話している顔からは、自然と笑みがこぼれる。将来は番記者になり、松井選手の活躍を追いかけるのが夢だったと語ってくれた。
その夢から、次第に跡継ぎを意識して将来を考えるようになる。大学は早稲田大学を受験し、合格。しかし、最終的には二浪して大阪大学経済学部へ進学することを決めた。それはなぜか。
「私立に行くと、また『えーなー、ぼんぼん』って思われるのが嫌だったんですよね。今から思えば、気にせず飛び出せばよかったんですけど(笑)。でも、大阪では誰も僕を『よーじやの息子』として見てこなかったので、楽になりました」
地元京都を離れると、それまで感じていた息苦しさがふっと消えた。黙っていれば、老舗の息子だなんて誰にも気づかれない。國枝さんはそれが心地よく、自由に感じた。
大学卒業後は公認会計士を目指し、大手監査法人へ就職。将来的に家業にも生かせると思った。
そんな矢先、突然家業の危機を知ることになる。
■「あぶらとり紙ブーム」のころとは別世界
2018年末、銀行から「このままではよーじやは潰れる、帰ってきたほうがいい」と相談を受けたのだ。当時、銀行との話し合いは幹部が担っていたが、経営回復にはつながっていなかった。また、その時の従業員から「一部の上司が優遇されて、キャリアアップの機会がない」「自由な発言ができない」など不満も耳にし、実際、離職率は30%を超えていた。
「当時、社内は二つのグループで確執があり、制服も2種類あったんですよ。トップダウンの風潮で、現場は重苦しかったですね」
よーじやの実情を知った國枝さんは、かなりの衝撃を受けた。それでも、公認会計士の道をすぐに諦める気にはなれなかった。今まで数千時間の勉強を積み、あと数年で最終試験に手が届くところまで来ていた。せめてそこまではやりきりたかったのだ。
ところが2019年2月、先代である父が突然倒れてしまう。國枝さんの頭に、銀行の忠告や従業員の現状がよぎった。
「よーじやと無関係のまま人生終わることはないだろうな、っていうのはすごいあったしね。辞めるなら今しかないかと覚悟を決めました」
よーじやの息子なのに「蚊帳の外にいた自分」が、初めて「必要とされている」ことにも背中を押され、2019年6月に監査法人を退職。そして同年8月によーじやへ入社し、同時に代表取締役に就任した。
國枝さんは状況を理解して戻ってきたつもりだったが、やはりかつてのよーじやとは別世界だった。
「あぶらとり紙ブームが終わってるのに、そのイメージが残ったまま、努力もしない会社を引き継いだ感じでしたね」
銀行の忠告時から売り上げはさらに低下し、赤字が続いた。ブランド力だけに頼った経営で、現実を見る人はおらず、目の前にある商品を売っているだけだった。
■「あぶらとり紙だけでは再生できない」
「会社って、本来守るものがあるじゃないですか。でも『俺たちはこういうのをやってきたんだ』と語る人もいなかったし。どの話も他人事のように聞こえて、それが残念でした。この20年、よーじやは何をしてきたんだろうって思ったとき、もう変えるしかないと決めたんです」
國枝さんは、誇るものがないよーじやを憂いたが、覚悟は決まった。ただ、家業に戻ったばかりの若社長にとって、年が倍ほど離れた幹部たちに意見するのは難しかった。だから言葉ではなく、結果で示すしかないと自分に誓った。
「このまま、あぶらとり紙に頼り続けていては、経営の再生はできないと思いました。ただ、『100年以上続く老舗』だからといって特別なプレッシャーは感じませんでした。むしろ、シンプルに経営課題とだけ向き合えたことで、ベンチャーのような気持ちで始められたのは救いでした。そもそもぼくは、小さい頃から店や従業員と接点がなかったので、ある意味お客さん目線だったんです」
老舗だが、引き継ぐものがないと感じていた國枝さんは、制約のない状況をむしろチャンスだと思ったという。まずは小さな部分から会社を変えようとした。
「例えば、効率化のために、勤怠管理を紙のタイムカードからシステム化しました。でも、その変化が嫌で、辞めた人もいました」
國枝さんは、従業員に意識を変えてもらうことが一番難しいと痛感した。しかし、このあと従業員が変化し始める。それは皮肉にもコロナがきっかけだった。
■「京都のおみやげ屋さん」から抜け出すために
「やばい、このままじゃ、本当に潰れるかもしれない」
もともと厳しかった経営状況に、とどめを刺したのはコロナだった。観光客の激減により、銀行から連絡があった時点から、さらに7割も売り上げが落ち込んだ。あぶらとり紙もまったく売れず、1日の売り上げが1746円という日もあった。
しかし國枝さんが優先したのは、約180人の従業員の雇用だった。雇用調整助成金の活用で給料を支払い、自らの報酬もカット、そして契約社員の希望者全員を正社員登用。それらを徹底したのは、「経済が回復したら絶対に人が大切になる」と考えていたからだ。
この時、思いがけない副産物もあった。店舗間や部署間の交流がほとんどなかった従業員たちが、自宅待機となり、自主的にオンラインで交流し始めた。不定期ながら、今後の方向性について話し合いを重ねる中で、「変わっていこう」という雰囲気が共有されるようになる。
お互い躊躇なく意見を言い合える関係ができてきた。この動きは、会社を変えようともがいていた國枝さんとも共鳴していく。会社をこれからどうしていくべきか――。
会議は週1回のペースで定着。商品の見直しや新商品開発がスタートした。その第一弾として誕生したのが「よーじやマスク」だ。構想からわずか2カ月で商品化され、オンライン限定1000枚は即完売した。この小さな成功体験が、國枝さんと社員たちの背中を押すことになった。
ある日、「観光に頼らないブランドが、前年比150%の売り上げを記録した」という記事を目にした國枝さんは、改めて確信する。
「やっぱり、観光だけに頼っていてはダメだ」
■「脱・観光依存」というキャッチフレーズ
観光頼みの経営には限界がある。けれど、もともと観光業であるよーじやが、社内で方向転換を図るのは簡単なことではなかった。
「わかりやすい動画を作ったりしました。でもやっぱり、心に残るキャッチーな言葉が必要だなと思ったんです」
そして生まれたのが、「脱・観光依存」というキャッチフレーズだった。
「京都にいながら、それを掲げるのは怖くなかったですか?」京都出身の筆者は、思わずそう尋ねた。
「怖くないことはないですね。でも僕、小さい頃から京都に深く触れてきた感覚があまりないし。むしろ『京都に関わっていくこと』の方が怖い、って今でも思ってます。京都の集まりに出たときに、『國枝さんとこ、初めてお会いしましたわ』って言われたことがあって。要するに、父が一度も会合に顔を出してなかったっていう意味なんですよね。京都って、はっきり言わない文化があるじゃないですか(笑)」
「京都の目」が怖くないわけではなかったが、それ以上に家業への危機感が強かった。このとき國枝さんの頭にあったのは、祖父の代のよーじやだった。かつての商品は地域の人たちの日用品で、暮らしの中にあった。國枝さんは、「お土産物」ではなく「普段使いできる商品」に活路を見出した。
■「お土産物」ではなく「普段使いできる商品」を
まず目を向けたのは、20年前から販売していたスキンケアシリーズ「うるおいぷらす」。これを思い切ってリニューアルすることに決めた。
商品開発歴20年のゼネラルマネージャー・金森久美子さんは、こう振り返る。
「『うるおいぷらす』は、当時人気だったヒアルロン酸がウリのシリーズでした。でも20年間、リニューアルもしてこず。世の中にはどんどん良い成分が出てきてたのに、社内では『観光に来て、お土産で化粧水なんて誰が買うの?』っていう空気があって。新しい商品開発に腰が重かったんです。でも『脱・観光依存』が打ち出されて、今だ、と思いました」
金森さんを中心に、若手メンバーを加えた7人のチームが結成され、本格的な商品開発がスタート。約3年半の歳月をかけ、2023年に誕生したのが、新フェイシャルケアブランド「su-ha(すーは)」だ。
次の課題は、「普段使いの商品を、どこで売るか」だった。祇園四条や清水寺、嵐山といった観光地は、地元の人が日ごろ行く場所ではない。一方、京都駅に隣接するデパート、京都伊勢丹や四条河原町の繁華街にある路面店なら、地元の人と観光客のどちらにもアプローチできると考え、それぞれ2023年2月と2025年2月にオープンした。
■販路を全国に広げる
お土産物店にとっては「京都でしか買えない」ことに意味があるが、國枝さんは「全国どこでも買える」ことを重視。販路を京都以外にも求めた。2023年に大阪・ルクアイーレ、2024年に東京・北千住マルイの都市部の商業施設に出店。全国のロフトで一部商品を取り扱い、ECサイトも強化した。
「最近は、修学旅行先が京都から東北に変わってきているっていうニュースも見ました。ホテル代も高くなって、日本人観光客は減っていると聞きます。だから『京都に来たら買える』という売り方は、今の時代には合わないと思ってます」
経営状況は2023年7月期には黒字に転じ、コロナ期の苦境を乗り越えた。現在も売り上げは前年比約15%増という勢いで伸び続けている。
ただし、これで「脱・観光依存」が成功したと手放しで喜べるわけではない。コロナ後、京都に観光客が戻り、それに合わせて売り上げが元に戻ったにすぎない。新フェイシャルケアブランド「su-ha」は、発売から2年に満たず、知名度も売り上げもまだない。
「基礎化粧品って、爆発的に売れるものではないんです。今使っているものが無くなったときにしか買い替えないし、それぞれのタイミングもある。だからこそ、よーじやがやるべきことは、お客さん一人ひとりと向き合って、直接商品の魅力を伝えられるような場所をつくること。そのために、直営店の価値をもっと高めていきたいと思っています」
■観光客ではなく、「京都の人たち」の中に入り込む
道半ばの「脱・観光依存」ではあるが、國枝さんはよーじやの変化を感じている。
よーじやは「十割蕎麦専門店 10そば」を運営している(現在、大阪と京都に2店舗ある)。2022年に人々の「日常」に入っていく戦略の一つとしてはじめた事業だ。出店先は、観光客の多い祇園・東山エリアなどではなく、京都市役所やオフィスが立ち並ぶビジネスエリア。店の外観に「よーじや」の名前もロゴもない。内装も一般的なそば店と代わり映えしない。
「『100年以上積み上げた老舗』を継いだというより、まさにベンチャー企業をはじめたような気持ちで会社の舵を取っています」
こう話す國枝さんの表れが「蕎麦店」なのかもしれない。開店当日から行列ができたのを見て、國枝さんは「京都に溶け込みたい、という部分が少しずつ形になっている」と思った。祖父の代のよーじやの姿に「10そば」を重ねた。
京都の人たちの中に入り込む一環で、2023年から京都サンガF.C.のスポンサー契約もしている。國枝さん自身もできる限りスタジアムに足を運び、応援している。
「従業員から、サッカーが好きでやってるんでしょって、まだ思われてるんじゃないかな。野球好きは変わらないけどね(笑)。ただ、実際にサンガのスタジアムでサポーターさんから声をかけられると、うれしいです。この交流も、京都の人たちと関係を築く瞬間だと実感してます」
スポンサーになったのは単に広告のためではなく、京都とつながる大切な方法だという。サンガとのコラボ商品がきっかけで、よーじやの店舗に足を運ぶ京都の人もでてきた。國枝さんにとってうれしい誤算だった。
「大事なことは、あぶらとり紙屋さんじゃないですよってしっかりと伝えていくことです。ブームの影響で認知されてることはありがたいんですが、よーじやって聞くと、あぶらとり紙でしょ。でもその大半が、買ったことないか、昔買ったきりのどちらかなんですよね。この活動で、京都の人たちにとって存在意義があるような企業になりたいって本気で思っています」
■任天堂や、天下一品のように認められたら……
家業を継いで5年。こうした危機意識の先に、冒頭で触れたロゴ変更があった。
60年前から使用してきた「手鏡に映る女性」を、企業ロゴマークからあえて外す決断をした。あぶらとり紙だけではないブランドイメージを目指すなかで、女性の横に「あぶらとり紙」という文字があったことも理由だろう。ただし、現在も売られているあぶらとり紙の表紙など一部商品や紙袋には、引き続き、手鏡に映る女性「よじこ」が利用される。
これまで、観光の光に照らされるように存在してきた老舗土産店が、今、人の暮らしのなかへと歩み出している。「いつものスキンケア」「いつも手に取るブランド」といった、誰かの日常に溶け込むのは簡単なことではない。でも、それを目指す理由はある。
「今では『よーじやの國枝です』って、自然に名乗れるようになってきました。任天堂さんとか、天下一品さんのように、京都の人たちに誇りに思ってもらえる存在を目指したい。そしていつか、ぼくの子どもにも、『よーじやの人間に生まれてよかった』と思ってほしいですね」
----------
マエノメリ 史織(まえのめり・しおり)
インタビューライター
京都市出身。看護師で10年勤めたのち、ツアーガイドを開始。2022年からライターとして取材、執筆を始める。ひとの魅力を深掘りして伝えたい。
----------
(インタビューライター マエノメリ 史織)