経済小説の中には、「企業もの」と分類したくなる作品がある。2013年に放送された人気ドラマ『半沢直樹』(TBS系)の原作『オレたちバブル入行組』(文藝春秋)は、著者の池井戸潤氏が三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に勤務した経験が作品に反映されているといわれる。
また、日本航空123便墜落事故という同じ題材を、異なる企業を舞台に描いたのが、山崎豊子の『沈まぬ太陽』(新潮社)と、横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』(文藝春秋)だ。前者は日本航空が、後者は上毛新聞が舞台になっている。
出光興産をモデルした作品は、高杉良の『虚構の城』(講談社)に、百田尚樹の『海賊とよばれた男』(同)と、数え上げればきりがない。
そして、ここに『小説・大日本帝国印刷』(集中出版)という本がある。印刷業界の最大手を描いた、やはり「企業もの」小説だ。同作は大きな反響を呼んでおり、熱烈なファンも少なくない。
魅力のひとつは、あまりにもあからさまな企業名だろう。舞台となる大日本帝国印刷を筆頭に、凹版印刷、JCVカード、西能運輸、住井重工、日交自動車、東京電鉄、三友不動産、三超デパート……。
本書は、こうした有名企業の“暗部”を積み重ね、あの「印刷業界のガリバー企業」の実情を明らかにしていく。今回、著者の尾道号外氏に
・本書を執筆したきっかけ
・「大日本帝国印刷」のモデルとなった企業
・印刷業界の内情
などについて聞いた。
●大手印刷会社の元専務の証言を元に「小説」を執筆
--そのリアルな内容から、「Amazon.co.jp(以下、Amazon)」のレビューを見ると、小説ではなくノンフィクションとして受け止められているようです。
尾道号外氏(以下、尾道) 本書の中では、仮名にするつもりが間違えて実名にしてしまった部分もあるくらいで、ノンフィクションでの出版を検討したこともあります。
--「Amazon」の著者紹介にも、大手印刷会社のOBであることが堂々と記されています。
尾道 隠しても、わかる人にはわかりますからね。私は1977年にモデル企業の印刷会社に入社しました。営業を中心に18年間勤務しましたが、その間に「大番頭」「実質社長」と呼ばれた専務が、非常にかわいがってくれたのです。
--それは、小説の中では「工藤通次」として登場する人物ですか?
尾道 そうです。もう退社されたので元専務になりますが、以前から元専務の一代記をなんらかのかたちでまとめるのが夢で、本人にも依頼していました。しかし、元専務は「生臭い話が多いから、10年待ってくれ」と固辞し、10年後にあらためてお願いすると、今度は快諾してくれました。そして、長時間のインタビューを行うことができたのです。
--元専務は、会社の懐刀ですから、内部事情に精通しているのは当然でしょう。
「工藤は、三超デパートの社長岡戸茂から溺愛されていた輸入商の竹下みつよと懇意だった。最初の出会いは政治家からの紹介だと記憶しているが、どのような場面だったのかは憶えていない。竹下みつよは六本木三丁目の三階建の豪邸に住んでいた。その自宅の中に秘密クラブを持ち、経済界や政界の親しいメンバーを集めては夜な夜なパーティーを開いていた。一階がバーで二階は本人の住居、三階は客室だった。この客室はその夜のカップルのホテル代わりにも、使われていたに違いない」
この描写は、1982年に世間を騒がせた「三越事件」を指しているのは明らかです。しかも、現社長が「前社長のジュニア」だった時代、この「秘密の館」を気に入って入り浸り、愛人をつくり、経理部が領収証の山を前に途方に暮れる場面まで描かれています。
尾道 元専務が、それだけ赤裸々に話してくれたのです。私も、それなりに会社の暗部を知っているつもりでしたが、まったくの初耳でびっくりしました。
●不正会計が横行していた、当時の業界
--ほかにも、目次を見ると「第二編第二章 日本初の産業スパイ事件」「第五章 社会保険庁シール談合事件で逮捕者」「第六章 JCVとカード会員誌の談合」「第七章 連続四七期増収増益のカラクリ」など、非常に興味深い内容が満載です。
尾道 日本経済の勢いが反映されていたのでしょう。よくも悪くも、高度成長から安定成長へ向かう日本経済では、営業担当者は花形だったのだと思います。モデル企業の交際費は、月500万円など当たり前でした。私の上司も、精算前の領収証を机の引き出しに入れていたのですが、たまりすぎて引き出しが開かなくなってしまったことがあります。また、みんなで酒を飲み、談合を根回しして、全員のノルマが達成できるようにしていました。横浜営業本部は、総勢15人ぐらいの小所帯でしたが、神奈川県1位の売り上げを誇っていたのです。
--ただ、「カラクリ」という言葉があるように、会計の粉飾が常態化していたのでしょうか?
尾道 2000年代に入り、米国会計基準を導入する日本企業も増えてきましたが、それまではやりたい放題でした。どこも、東芝のような不正会計を行っていたのです。詳しい仕組みは本書を読んでいただきたいですが、4000万円の公共事業を印刷10社で談合して請け負えば、昔は各社で売り上げを計上することが可能でした。あくまで帳簿上のマジックではありますが、10社が計上した売り上げを足すと、なんと合計4億円の事業に化けてしまうのです。当時、私はモデル企業の社員でしたが、「こういう粉飾が積み重なって、日本は世界2位のGDP(国内総生産)を達成したのでは?」と疑問に感じたことを鮮明に覚えています。
--また、『半沢直樹』のように、理不尽な人事に対して復讐を果たす人もいれば、あっという間に左遷されてそれっきりの人もいます。実にリアルですね。
尾道 私が「実話ですから」と言ってはいけないのかもしれませんが(笑)。モデル企業の現在の社長は、年間7億円以上の報酬を得ており、日本人経営者の最高額ともいわれています。しかし、早朝から深夜まで働きずくめの社員の給料は、いったいいくらでしょうか。交際費も、今はカットの嵐です。社長の報酬と比較するのもバカバカしくなり、多くの優秀な社員が去っていきました。もし、彼らが会社に残っていたら、今とは比較にならないほどのスーパー企業になっていたことは、間違いありません。こうした憤りを、社員や関係者に知ってほしいという思いで、本書を出版しました。また、大日本帝国印刷の盛衰を通して、日本経済の推移も透けて見えるという自負もあります
●奥付に印刷会社名がない理由
--本書は14年6月に出版されましたが、初版部数は3万部と強気な印象です。
尾道 有名作家であっても、今は初版1万部程度というのが珍しくないので、そういう印象を持たれて当然でしょう。しかし、実は違います。
--本書の奥付には、通常は記載されている印刷会社名が書いてありません。
尾道 なにしろ、「印刷業界のガリバー企業」の“暗部”がテーマです。そんな本を刷れば、たちまち仕事を干されてしまいかねません。それだけでも、大日本帝国印刷のモデル企業が、どれだけの権力を持っているかというのがわかります。また、多くの人のイメージである「町の印刷屋さんが大きくなった会社」ではないということも、本書で知ってもらえればうれしいです。
(構成=編集部)
尾道号外(おのみち・ごうがい)1952年生まれ。中央大学からケンブリッジ大学に留学し、帰国後に就職。77年に大日本印刷に入社、94年に退社。