今回は「わかる人だけわかればいい」というボクシング漫画の話をさせていただく。
もし私が漫画について自身のオールタイムベスト10、つまり史上最高の10作品を選ぶとしたら『はじめの一歩』は間違いなくランクインする。
それくらいおもしろいボクシング漫画『はじめの一歩』が、なぜつまらないのか? 矛盾した表現だが、恐らく『はじめの一歩』ファンの方なら同作が『あしたのジョー』より面白くてつまらないという点には同意してくれるはずだ。
その理由は、私の専門領域であるビジネスにあるというのが今回の話だ。
●あしたのジョーの呪い
具体的に『はじめの一歩』が『あしたのジョー』よりつまらない理由はふたつある。そのうちのひとつは、「あしたのジョーの呪い」だ。
今回は「わかる人だけわかればいい」という基準で細部の説明は省略するが、私より上の世代にとってアンチヒーローだった『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈は、世界チャンピオンになれずに白く燃え尽きて終わった。問題はそれ以降、同作の掲載誌であった「週刊少年マガジン」(講談社)誌上で、主人公がボクシングの世界チャンピオンになることがなくなってしまったことだ。これが「あしたのジョーの呪い」である。
『ガッツ石松物語』のような実録物の漫画は別である。「少年マガジン」誌上では『タフネス大地』などフィクションのボクシング漫画の主人公が日本チャンピオンになった時点で、連載は打ち切りになるという不思議なケースが非常に長い間、続いてきた。
しかし、20世紀終盤にこの「あしたのジョーの呪い」を部分的に解き放ってくれたのが「少年マガジン」で連載されていた『はじめの一歩』だった。主人公以上の存在感がある鷹村守が世界ジュニアミドル級で、この物語の登場人物の中では歴代最強といっていい世界チャンピオンを破り、ついに世界チャンピオンのベルトを腰に巻いた。
ところがなぜかこれ以降、鷹村の世界戦は一部の試合を除いておちゃらけた試合が続き、主人公やそのライバル世代もひとりを除いてなかなか世界に届かない状況が続く。連載から25年以上たって、いまだに世界は遠いというところが読者としてはつまらない。
●世界チャンピオンのインフレ
『はじめの一歩』が『あしたのジョー』よりつまらないもうひとつの理由は、現実のボクシング界で起きている世界チャンピオンのインフレを、作品の世界観に反映できていない点だ。
私が子どもの頃のボクシング世界チャンピオンはすごかった。いや、それ以前に日本人で最初に世界フライ級チャンピオンになった白井義男さん、その次のファイティング原田さんの頃などは、世界にボクシングの世界チャンピオンは8人しかいなかった。階級順にフライ級から始まってライト級、ミドル級、そしてヘビー級までの8階級にしか世界チャンピオンがいなかった時代だ。
『あしたのジョー』の連載が始まったのは1967年だが、その前年まで日本人のボクシング世界チャンピオンは白井義男、ファイティング原田、海老原博幸の3人しか存在しなかった。それくらいボクシング世界チャンピオンとは遠い世界だったのだ。
ところがこの時期にボクシング団体はWBAとWBCの2団体に分かれ、各階級の間にジュニアバンタム級、ジュニアフェザー級という中間の階層(現在は呼称が変わってそれぞれスーパーフライ級、スーパーバンタム級)が登場し、階級は全体で16階級(現在では17階級)に細分化された。
ファイティング原田の時代までは8人だった世界チャンピオンの座は32に増え、『あしたのジョー』の連載が終わる頃には歴代日本人世界チャンピオンの人数も10人にまで増えた。
さらにその後、IBFとWBOという新興団体が加わり、プロボクシングの団体数は4つに増える。そして極めつけは同じ団体、同じ階級内に複数の世界チャンピオンが登場したこと。
ちなみに男子プロテニス界では、8月20日時点で世界ランク85位以内には日本人は錦織圭ひとりしかいない。錦織に次ぐ日本人の中で30歳の添田豪と26歳の伊藤竜馬は最高位で60位以内に入ったことがあるが、そこまで入れてもわずか3人だ。それに対してボクシングでは現役日本人世界王者は9人もいる。言い方は悪いが、プロテニスで世界ランク上位に出るほうがはるかに難しい。
体重別で戦うボクシングとテニスを一緒にしてほしくないというなら、白井義男の時代に比べて世界チャンピオンの人数が10倍に増えているという意味で、現在のボクシング世界チャンピオンは『あしたのジョー』の矢吹丈がボクシングを始めた頃の世界10位でも到達できる地位にインフレしてしまったといっておこう。
そして『はじめの一歩』の主要キャラたちは、連載から25年たった今でも、そのかつての世界ランキング10位よりも下の世界から抜け出せていないのだ。
●連載漫画がおもしろくなくなる仕組み
現実のボクシング界のヒーローにとっては、世界王座は実は通過点でしかなくなっている。それよりも世界王座で何度防衛するか、そしてそこから何階級勝ち上がるのか。さらにいえば、マッチメイクで弱い相手とばかり戦って階級を重ねても元世界王者としての評価は低い。
単なる世界タイトルマッチでは、かつてのように地上波の放送でも視聴率は取れない時代。現実のプロボクシングというビジネスが、そうなっている。
にもかかわらず、『はじめの一歩』の設定は40年以上も前の「あしたのジョーの呪い」をうけて、主人公たちはいつまでたっても世界タイトルマッチを舞台に戦いすらしない。主人公の幕之内一歩は、往年のライト級で石の拳と呼ばれたロベルト・デュランや、せんだって世界最強を決める一線を戦ったかのマニー・パッキャオばりの破壊力を持つボクサーだ。その幕之内がようやく世界に届くかという試合においては、世界前哨戦レベルで逆にマニー・パッキャオばりのKOパンチのくらい方をして、深くリングに沈んでしまった。
『はじめの一歩』の世界観でいえば、黄金の世代と呼べるほどの強者が集まった主人公たちは、現実世界であれば今ごろはスーパーバンタム級からライト級までの階級の世界王座を、主人公の幕之内一歩だけでなく、宮田一郎、千堂武士、間柴了らライバルたちで占めているはずである。
にもかかわらず、わずかに新興団体のIBFにおいてヴォルグ・ザンギエフがジュニアライト級で世界王座を占めるだけという、キャラたちの活躍の狭さ。ここに「少年マガジン」で連載を始めてしまったボクシング漫画のしこりというべきか、オトナの事情で「連載漫画がおもしろくなくなる仕組み」の背景を垣間見てしまう。
『はじめの一歩』で描かれるボクシングの試合は、実におもしろい。登場するひとりひとりの選手は実に強い。
(文=鈴木貴博/百年コンサルティング代表取締役)