数あるソーシャルゲームの中でも、トップクラスの人気を誇る「モンスターストライク」。同ゲームの開発・発売元は、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の「mixi」で名を馳せた株式会社ミクシィで、同社は「モンスト」の驚異的な売り上げで好調な業績をあげている。
そのタイミングと同じくして、奇跡的な復活を遂げたのが、ゲームプロデューサーの岡本吉起氏だ。大手メーカーの社員として、業界の黎明期から活躍していた岡本氏だが、独立して立ち上げたゲーム会社が苦戦。莫大な借金を抱え、一時は「行方不明」とまでいわれた。そんな男が、なぜ「モンスト」で復活することができたのか。岡本氏に話を聞いた。
●コナミ→カプコン→開発会社を起業
--最初は、コナミ(現・コナミホールディングス)に入社したんですよね。
岡本吉起氏(以下、岡本) そんなところから始めるの?(笑) そう、最初はイラストレーターとしてコナミに入りました。コナミでは絵だけじゃなくて、企画もデバッグも、ロケーションテスト用の機材運びもやっていて、「ピカデリーサーカス」(メダルゲーム)なんかもつくっていましたね。
--それから、カプコンに移ったのは、どういった経緯ですか?
岡本 一緒のチームでやっていたプログラマーの方が、社長と喧嘩して辞めたのですが、それに巻き込まれたんです。辞めた後にいろいろな会社から声がかかる中、僕に「開発を任せる」と言ってくれたのが、カプコンでした。
それで入社したら、当時のカプコンは販社で開発部門がなく、一から立ち上げるところからやらなくちゃいけなくて。そこで、コナミ時代の同僚に電話して合流してもらったら、それが「汚い辞め方だ」ということで、いまだにコナミは出入り禁止です(笑)。
--カプコンでは、「ソンソン」や「エグゼドエグゼス」から「ストリートファイター2」まで、さまざまな作品に関わり、ヒット作を連発して一時代を築きました。
岡本 コンシューマーゲーム(家庭用ゲーム)の良い時代に生まれたし、良い時代をつくった1人と言ってください(笑)。
--そして、2003年にカプコンを退社、ゲームソフト開発会社のゲームリパブリックを設立します。しかし、10年ごろに経営難になり、11年には大きな負債を抱えたまま、岡本さんはゲーム業界から姿を消してしまいました。
岡本 負債は2ケタ億円ぐらいありました。ゲームリパブリックを立ち上げた時は、ソニーと組んでやっていたんですけど、急に契約を打ち切られちゃったんです。
それで、急いで組む相手を探して、見つけたのがアメリカのファンド系の投資会社で、その会社からのお金でゲームをつくっていました。その会社とは、マイルストーンという毎月の途中経過を見せる契約になっていたので、モノができなければ、こちら側が契約違反をしたことになり、それまでのお金も全額返すというルールだったんですね。
それでいきなり「この段階では、今月はお金を出せない」っていうことになった。たぶん、投資会社のほうも、リーマン・ショックがあって資金がなくなってきていたんだと思うんです。
こっちはお金がないから苦しい。でも、モノができなきゃお金がもらえないので、銀行に運転資金を借りてなんとかする。
●家賃も光熱費も払えず、優秀な社員から辞めていく
--当時は、かなり苦しい台所事情だったんですか。
岡本 「もうダメだよね」という状態の中で、それでも営業をしていたら、バンダイナムコゲームス(現・バンダイナムコエンターテインメント)が拾ってくれました。バンナムは、ゲームをつくるお金は提供してくれたんですけど、それだけでは会社の借金を返済する余裕はありません。
そのため、スタッフの給料は据え置き、あるいは減給にせざるを得ませんでした。できたばかりの会社なので若いスタッフが多かったのですが、伸び盛りの若い人たちの給料を抑える、というのは会社としてあり得ない。結果的に、優秀なスタッフから抜けていきました。
優秀なスタッフが抜けた状態で仕事を受けているわけですから、結果も思わしくありません。まわりからは「お前ら、これ、どうにもならんやろ」と言われるのですが、「そうですね」としか答えられない。
その頃、バンナムでもリストラが始まったりしてお金がなくなってきて、最終的にはバンナムがうちの社員の給料を直接払うというシステムになりました。当時は「事務所の家賃も払えないです」と言っても、「(払わなくても)6カ月ぐらいは追い出されないから大丈夫だ」と言われるような状況でした。
--かなり壮絶ですね。
岡本 「とりあえず給料だけは払うから、モノを完成させてくれ」となるのですが、経費も光熱費も家賃も未払いの状態でしたから、もう沈むしかないんですよ。僕はとにかく借金をしてでもゲームソフトを完成させることしか考えていなかったですね。
--05年には、Xbox 360(マイクロソフト)専用のパーティーゲーム「エブリパーティ」という、ある意味で伝説的なセールスの作品を開発しました。
岡本 正直、あのゲームは僕がつくったといわれるのは不本意ですね(笑)。あのゲームはもともと、ハドソンとマイクロソフトがつくっていたのですが、企画と絵の出来が悪かったので、最後にうちが開発の手伝いをしただけなんです。
それで、マイクロソフトに「デザイナーのギャラをください」と言ったのですが、「ハドソンに払っています」と言われて、ハドソンからは「描き直し分は別の予算だから知らない」となりました。
結局「三者、痛み分けで」ということになり、3社が3分の1ずつ負担することになりました。「ちょっと待って。俺のところは何も悪くないのに、なんで泣かなあかんねん」と。最終的には、僕の名前でゲームが出て、世間的には「(売れなかったのは)岡本吉起がダメだったから」ということになっていますね(笑)。
●給料が払えず、社員から罵声を浴びせられる日々
--いろいろと“ババ”を引かされていますね。
岡本 僕は、相当引いていると思いますよ(笑)。でも、自分で会社を経営している時にババを引かされるのは、仕方ないですよね。会社を立ち上げてからは、そんなことの連続でしたが、それは僕の経営が甘いから。もともと、僕は経営ではなく開発畑の人間だし、ある意味でハメやすかったのかもしれませんね。
--会社の末期は、どういう状態だったのですか?
岡本 僕は、ずっと給料がゼロでした。でも、社員は最大320人いたので、僕1人がゼロにしたところで、あまり意味がないんですよ。だから、せめてゲームを完成させたかった。
この業界は、未完成なモノに携わっていても何もプラスにはなりません。どんなにダメな作品でも、世に出ていれば、グラフィッカーなら「僕は、この絵をやりました」と言えるじゃないですか。それが、再就職につながるかもしれません。
そんな思いで、個人で借金を背負いながら、沈む船の上でもがいているような状況だったのですが、給料の遅配や未払いが発生すると、スタッフからはものすごい罵声を浴びせられました。
自分が守ろうとしているものから攻撃を食らうというのはダメージが大きくて、うつ病になってしまいました。
--まさに、ドン底というやつですね。
ゲーム業界の荒波に揉まれ、心身ともに落ちるところまで落ちていた岡本氏。しかし、そんな状況で「モンスト」のヒントをつかみ、再び立ち上がることになる。奇跡の復活ストーリーは、後編でお伝えしたい。
(構成=大谷弦/清談社)