本コラムでは、1回目において「モンスター社員」、2回目において「子ども社員」と、職場を崩壊へ向かわせる典型的な事象について述べてきた。これらに共通している要素がある。

「寛容性」の欠如である。3回目となる今回は、職場の崩壊の背景にある、この点について述べていきたいと思う。

●キレて暴れる中高年

 駅員への暴言や暴行というニュースにたびたび触れる。仕事中であって無抵抗の人に対する一方的な暴言や暴行ということで、暗い気持ちになる。こうした暴力行為は、日本民営鉄道協会等の調査によると、若い人たちよりも中高年に多いという。

 本来、社会常識やマナーの手本となるべき中高年が、最もキレて騒いで、暴れてしまっているわけだ。こうした実態を見ると、「最近の若者は……」などと言っていられない状況にあることがわかる。どうして、このようなことになってしまっているのだろうか。心理学において、「欲求不満-攻撃仮説」という理論がある。欲求不満が高まると攻撃行動が喚起されるというものである。言い換えれば、攻撃行動の背景にはなんらかの欲求不満が存在し、欲求不満が強いほど、攻撃行動が誘発されやすいとされる。

 暴言・暴行の実態を見るに、中高年の心の中に「こんなはずじゃなかった」「自分は報われていない」という思いがくすぶっていることが関係していると考えられる。
満員電車での通勤、仕事上の厳しいノルマ、不公平な評価、残業の多さ、職場での居心地の悪さ、上司との折り合いの悪さ、低い報酬、仕事上のミスによる上司からの叱責、顧客からのクレーム等々。これらはすべて、社会的ストレッサーである。

 こうしたことが重なり、「なんで自分だけがこんな目に遭わなければならないのか」という思いが欲求不満を生じさせ、攻撃対象を探しているような状況になっている可能性は高い。“やり場のない怒り”という表現があるが、そのような怒りを抱えている場合、その“やり場”を常に探している状態ともいえるであろう。ゆえに、ちょっとしたきっかけで暴発してしまうのである。とはいっても、職場で暴発させるわけにはいかないので、じっと我慢し、ますますストレスを溜め込む。そんなところへ、駅で気に入らないことがあった場合など、つい自分でも驚くほど攻撃的になってしまうのだ。

●保育園の子どもの声がうるさい

「寛容性」の欠如に伴って、これまでまったく問題になることのなかったことが問題化するようになった。幼稚園や保育園の近くに住む人が「子どもの声がうるさい」というクレームを出すようになったのもそのひとつだ。2014年9月に東京都が発表した調査結果では、都内のおよそ7割の市区町村で、保育園などに子どもの声に対する苦情が寄せられているという。子どもの声が騒音だというわけだ。

 この騒音問題に対して保育園側は、子どもの声が周辺住民に迷惑をかけないようにと、外遊びの時間を制限したり、苦情があれば園庭に出さないというルールをつくったりという対応を取っているというのである。
何かに集中している時など、うるさいと感じることはあったにしても、かつてはそれに対して役所などにクレームを付けるという発想はなかったであろう。そもそも、将来を担う子どもたちは社会全体で育てていくのが当然という考え方が共有されていたはずである。

 それが受け入れられない、許せないという社会になってきている。寛容性を失ってしまったのだ。自分が嫌なことは嫌で、相手を変えようとする。あるいは、自分と違う考え方や価値観を受け入れられない。相手が間違っているから、相手が変わるべきだという発想なのだ。世の中、自分の思い通りにならないことはいくらでもある。しかし、それが許せない。かつては自分も子どもだったり、子育てをしたりしていたはずなのに、子どもや子育てをする親という自分と立場の違う人たちへ共感できなくなってしまっているのだ。

 少し前に、「ジャポニカ学習帳」の表紙から昆虫の写真が消えたということもあった。1973年からそうした写真の掲載が続いてきた伝統のある学習ノートだが、昆虫の写真に対して、保護者や教師からクレームが寄せられるようになり、昆虫が表紙になっているノートの生産数量を徐々に減らされ、2012年、表紙から昆虫の姿は見られなくなった。
学習ノートは他にいくらでもあるわけなので、他のノートを使用するという選択肢は常にあるわけだ。にもかかわらず、クレームを付けずにはいられない。「寛容性」の欠如と共にクレーマー的な精神構造を持つ人が増え、クレーム社会と化しつつあるのだ。

●NHKスペシャル「不寛容社会」

 こうした「不寛容」に関するテーマが、2016年6月放送の『NHKスペシャル』でも取り上げられた。番組のなかで、「過剰反応を起こす人が、ネット社会で行動を起こしやすくなっている」ということが指摘されている。匿名で極端な主張を発信することができる社会になったのだ。匿名ゆえに極端に走りがちということもあるであろう。すると、それに呼応する人たちが出てくる。そして、実際には少数意見ではあっても、あたかも多数意見であるような印象を与えるようにもなるのだ。

 当調査において、今の日本社会について、「他人の過ちや欠点を許せる寛容な社会だ」という意見は41%であるのに対し、「他人の過ちや欠点を許さない不寛容な社会だ」がそれを上回り46%であった。「心にゆとりを持ちにくい社会だ」については、「そう思う」が62%に対し「そう思わない」が31%とちょうどダブルスコアという結果であった。「いらいらすることが多い」については、「そう思う」が66%、「そう思わない」が26%であった。


 3人に2人の割合で「いらいらすることが多い」という社会は明らかに望ましいものではないが、その怒りを誰かに転嫁しようとする行為こそが、より問題である。仕事をしていれば面白くないことはいくらでもあるが、少しでも状況を好転させるように努力してみたり、理不尽な状況にもある程度我慢をしてみたり、ストレスを解消する工夫をしてみるなど、こうした対応が社会性を身に付けた者の取るべき対応であろう。しかし、そうではなく誰かを誹謗中傷するということをはけ口としてしまうような事象が増え、「不寛容社会」を生じさせてしまっている。

●ネットでの極端な行動が職場をも浸食し始めている

『NHKスペシャル』でも取り上げられたように、ネットの世界において誹謗中傷など、他者を攻撃する行動が多く見られるようになってきている。自分として面白くないこと、自分の考えや自分の常識には合わないことがあった場合でも、現実の世界ではなかなか行動は起こしづらい。リスクもある。しかし、ネット上においては、リアルな世界で行動に移すのと違って匿名で発信することができる。しかも、指を動かすだけだ。はるかにアクションのハードルが下がったのである。また、リアルな世界よりもはるかに広範囲な拡散性を持つという特徴もある。不特定多数へ向けて発信することが、その場において可能になったのである。

 ネット社会以前はマスコミ関係者や専門家でもなければ、不特定多数に対して発信することはできなかった。
それがネット社会になって、だれもが発信できるようになった。それにより、自分が巨大な力を得たような、万能感の幻想を抱く人が出てくる。特に権力欲が強いのに現実世界でそれを満たすことができない人や、もともと攻撃欲求が強い人は、自分が世の中に対して影響力をもつことに酔ってしまう。

 それに対して反応があったり、同調するような意見があったりすれば、「自分は正しい」「自分には影響力がある」という思い、自己効力感を抱くことができ、それによってまたネットへの書き込みに拍車が掛かる。特に、大きな欲求不満を抱えているような状況では、発言内容が過激になりがちであるし、執拗に発信を繰り返すということにもなりかねない。

 こうしたことを繰り返していると、いつの間にか、クレーマー的な精神構造が身に付いてしまわないだろうか。何か少しでも気に入らないことがあれば、気軽にクレームを付ける、あるいは誹謗中傷をする。また、誰かが誰かを攻撃している書き込みなどに同調し、煽るような言動を行ってしまう。こうしたことが習慣化してしまうと、現実の場面でも、自分の考えや価値観に合わないことがあれば、すぐにクレームを付けるという行動に出てしまいがちとなる。

 実際に他者批判的な行動様式は、現実世界にも入り込んできている。職場における「モンスター社員」や「子ども社員」の出現の背景にはこうした事情があるのだ。そして、これらの行動の主体が、本来模範を示すべき中高年層に多いという現実がある。


 しかし、以上の状況は今の時代特有のものなのかもしれない。ちょうど今の中高年層の社会人たちが、これまで発信したくてもできなくて、鬱屈したものが溜まりに溜まっていたところに、不特定多数に対して、無料に近いかたちで、しかも匿名で発信できるという手段が現われ、飛びついている状況と捉えられなくもない。今の中高生などは生まれた時からこういう状況があるので、それ以前の世代のように特別なことだという意識は当然ない。“つながり”はともかく、それほど情報発信意欲は高くないのではないだろうか。ゆえに特に攻撃的な発信は少なくなるのではないだろうかと、希望をこめて思うのである。

 むしろ、今の社会人、特に欲求不満を溜め込んでいる中高年が喜び勇んでネットに流れ込んできている状況であり、これは一時的な現象であることを願いたい。
(文=相原孝夫/HRアドバンテージ社長、人事・組織コンサルタント)

編集部おすすめ