上野駅は首都圏にあるターミナル駅のひとつだ。東北・上越・長野といった新幹線ネットワークの整備、さらに2015年の上野東京ラインの完成によってその位置付けは変わってきたが、長らく東京の北の玄関口となってきた。
上野駅の特徴のひとつは、こうした列車の発着に合わせて高架・地上・地下と3層に展開する複雑な駅の構造だろう。ここにはターミナル駅として設置され、のちに山手線をはじめとする首都圏の都市交通に組み込まれた歴史が見て取れる。さらに台地の縁に設けられた地形的な条件もあり、数多くある出入り口も立体的な構成だ。これにより上野駅は、首都圏のほかの駅には見られない独特な旅情を持った駅となっている。
上野駅の歴史は古く、明治の鉄道黎明期に始まる。
当時、政府は新橋~横浜間の鉄道に続く鉄道建設を計画していたが、財政面などの問題もあり進捗は滞っていた。そこで民間会社による鉄道建設が提案され、岩倉具視らを発起人とする日本鉄道株式会社が創立する。同社は東京~高崎間、さらには東京~青森間などの鉄道建設を計画、1882(明治15)年に着工へと進んだ。
当初、東京側の起点は品川として新橋~横浜間の鉄道に連絡させる目論見だった。これは現在の山手・赤羽線に相当するルートだが、ここは地形が複雑で工期も長くなるため、まずは東京の北部にターミナルを設けることで開業を急ぐことになった。のちに“鉄道の父”として顕彰される井上勝が工事を担当、現在の上野駅の場所を選んだとされている。
工事は順調に進み、83(明治16)年7月28日には上野~熊谷間を一気に開業、上野駅が産声を上げた。
ちなみに日本鉄道は、その後、現在の東北線、高崎線、常磐線、山手線、赤羽線に相当する区間を次々と開業させ、その営業距離は1300キロ以上に及んだ。1906(明治39)年の「鉄道国有法」によって、同社は国に買収され、これらの路線は国鉄線となり、さらに現在はJR東日本に引き継がれているのである。
●複雑な構造の由来
こうした歴史的な背景が、現在の上野駅のターミナルとしての機能にも大きな影響を与えている。
まず、大正時代に入ると、山手線を電車運転の環状線とすべく整備が進められた。この電車線は高架で建設され、その中間駅のひとつとして上野駅のホームが用意された。これによって上野駅は当初から設置されていた行き止まり式の地平ホームと2層構造の駅になった。
23(大正12)年の関東大震災で上野駅は駅舎を焼失、しばらく仮駅舎による営業が続く。この年から山手線最後の区間となる上野~東京間の整備も進められ、これは震災から2年後の25(大正14)年に完成、環状運転が始まった。
さらに昭和初期には常磐線も高架に切り替えることになり、併せて仮設状態だった駅舎も、鉄骨鉄筋コンクリートの構造で建設されることになった。これが現在の駅舎で32(昭和7)年3月31日に竣工している。ちなみに工費は約270万円と記録されている。
その外観は、現在もほぼ往年の姿を留めているが、その構造はかなり変わってしまった。
そして国鉄晩年の85(昭和60)年には大宮駅発着だった東北新幹線が当駅まで延伸、上野駅には地下ホームもできた。
●上野東京ラインの開業
近年の大きな変化は2015(平成27)年3月14日の「上野東京ライン」の開業だろう。上野東京ラインとは、上野~東京間に新たな複線を設置、東北・高崎・常磐線と東海道線で相互直通運転をするというものだ。ちなみに常磐線は品川発着となるが、上野駅での乗り換えが解消、よりスムースな流動が期待された。これにより所要時間は、朝の通勤ピーク時で比較した場合、大宮~東京間で9分、大宮~品川間で10分、柏~東京間で7分、柏~品川間で8分短縮されるとPRされた。ただし、全列車が直通運転するわけではなく、上野駅発着で残されたものもある。
また、このときに合わせて常磐線特急の愛称も、いわき発着が「ひたち」、勝田など近郊区間発着が「ときわ」に変更されている。
上野東京ライン完成の前後で上野駅の利用者数はどのように変わったのだろうか。
なお、当駅に隣接する上野動物園では2017(平成29)年にジャイアントパンダの「シャンシャン」が誕生、同年暮れから公開されるようになった。これに合わせて上野駅パンダ橋口わきに設置されていたパンダのぬいぐるみが大小2頭合わせての展示となった。共に上野駅構内に30年以上展示されてきたものだが、2頭揃ったのは今回が初めてという。上野駅の新しい話題のひとつだ。
(文=松本典久/鉄道ジャーナリスト)