ピアニストが舞台に上がり、観客の拍手に応える。彼はピアノの前の椅子に座り、観客はこれから始まる注目の作曲家の新作を、期待を込めて待っている。

ピアニストはすぐに弾き始めるように見えるものの、なかなか始まらない。そんな時間が30秒も続いた後、ピアニストは弾き終えたようなしぐさを見せる。そして、しばらくしてから再び彼の目が真剣になる。観客は「さあ、本当に始まる」と椅子に座り直すが、やはり弾かない。さすがに観客はざわざわし始めるが、そうこうしているうちに、またピアニストは弾くのをやめてしまう。実は、彼は弾くのをやめたわけではなく、まさに第二楽章を終えたところだった。
そして、第三楽章が始まるが、何も弾かない。さすがに観客の動揺やつぶやき声が大きくなり、それが最大限になった時、ピアニストは急に立ち上がり、お辞儀をして舞台を去っていく――。

 これが、これまでの音楽に新しい概念を植え付けたアメリカの作曲家、ジョン・ケージが1952年に初演した『4分33秒』です。当初は曲名すら付けられておらず、初演時の無音のトータル時間をそのまま曲名にしたのです。

 このケージは、若い年代の頃に「無音」を聴こうとして無音室に入ってみたが、微かに高い音と低い音が聴こえてくるので、エンジニアに確認したところ、「高い音は体内の神経系が働いている音で、低い音は血液が流れている音」との答えでした。そこで彼は「無音の不可能性」を強く感じたそうです。
そこで、その体験を具現化しようと、こんな音楽を作曲したのです。

 この曲は楽器指定もないので、オーケストラで演奏されることもあるようです。オーケストラにとっても、リハーサルが必要ないので楽といえば楽ですが、70名以上いるオーケストラ楽員と指揮者が何もしないで4分半もじっとしている光景は想像しているだけで不思議ですし、「お金を返せ!」と怒鳴る観客もいるかもしれません。しかし、ケージにとっては、この怒鳴り声も「偶然性が生み出した音であり、この作品の一部だ」ということですから、仕方がないですね。

 ちなみに、作曲家ケージがその後の作曲界に少なからず影響与えたことは確かです。たとえば、影響を受けたなかには、昨年文化勲章を受章された、世界的な日本人作曲家の一柳慧先生がいらっしゃいます。


ヤマハ社長の奇抜なアイディア

 さて、これまでに一度も楽器を触ったことがない方でも、この曲なら立派に“演奏”できるので、世界のすべての人を演奏家にしてしまったともいえます。冗談はさておき、実際に楽器を演奏している方はどれくらいいるのでしょうか。

 2016年に総務省が調べたデータでは、調査対象である10歳以上の日本人で、過去1年間に一度でも楽器の演奏したことがある人は、男性8.7%、女性13%となっています。もちろん、クラシックだけでなく、さまざまなジャンルの楽器を含んでいますが、僕は意外に多いと思いました。欧米では、教会で歌うことはあっても、楽器を演奏する人数はそれほどでもないように思います。

 そんななかでも、日本人が最初に思い浮かべる楽器は、ケージの作品の初演でも使用されたピアノであることは間違いありません。
これには、あるビジネスモデルの成功が深くかかわっています。

 日本は、1960年代の東京オリンピック、1970年代の大阪万博に象徴される高度経済成長により1968年に西ドイツを抜き、GNP世界第2位に躍り出ました。当時、中流階級という言葉も広まったように、経済的に余裕のある家庭が多数出始め、「子供には、まずはピアノを!」と、ピアノブームが起きました。とはいえ、今も昔もピアノは高価で、簡単に買えるものではありません。

 実は、このブームには仕掛け人がいたのです。今や世界的な楽器メーカーとなったヤマハ楽器の当時の社長、川上源一さんが、これまでにない奇抜なアイディアを思いついたのです。
それは“ピアノ貯金”というもので、「今から毎月貯金すれば、ちょうどよいお年頃にピアノが買えますよ」とのキャッチフレーズで、赤ちゃんが生まれた両親を説得し、積み立てを促したのです。

 さらに、まだピアノの椅子にも届かない小さな幼児に向けて、自社が運営する音楽教室で、「まずは音楽に親しんで」と音楽の基礎を学ばせ、“良いお年頃になった”10歳ごろになって、いよいよ本物のピアノを買ってもらうのです。

 今では、一般的となった音楽教室のビジネスモデルをつくり上げ、70年代の第二次ベビーブームの到来も大きく後押しをし、一気に多くの一般家庭の居間にピアノが置かれるようになりました。しかも、家のピアノには、教養を表す高級家具を置くような、プライドをくすぐる部分もあったのでしょう。僕も、ピアノにキズでもつけようものなら、母親からものすごく叱られたものでした。

 さて、69年にはヤマハのピアノは生産台数が世界一になり、販売額ベースでは現在でも世界一です。
ピアノだけでなく管楽器や打楽器は世界的にも評価が高く、弦楽器や学校の教材楽器等を含めると100種類以上の楽器を製造している世界最大の音楽総合メーカーです。僕も各国のオーケストラに行くと、「僕の楽器はヤマハだよ。とても良いんだ」と言われることも多く、誇らしい気持ちになります。

 ピアノの販売台数は80年代にピークを迎えたのち、少子化や電子ピアノの普及もあり、現在では10分の1程度に減少しているそうですが、ピアノはしっかりと調律を続けていれば3世代にわたっても十分使える楽器なので、日本の各家庭の居間には、まだまだピアノが置かれていると思います。

 さて最後に、「奥さんがピアニストらしいね。いいよね。夜に弾いてもらって、ブランデーを傾けられるね」と、会社の同僚にうらやましがられている、ピアニストの女性と結婚したご主人も、この連載をご覧になっているかもしれません。そんな、羨ましがられているご主人の代弁をしますと、まあ、実際には、そんなことは一度もないでしょうね。

 ある時はご主人よりもピアノを大事にするかと思えば、またある時はピアノを憎んでいるのかと思うくらい、別に美しくもなんともない同じ旋律を、何度も何度もずっと怒ったように練習していたりします。そんな時にピアノ室に入って、「あのブランデーはどこにしまったっけ?」などと聞こうものなら、「邪魔しないで!」と怒鳴られるのは間違いありません。
(文=篠崎靖男/指揮者)