山手線の田町-品川間に2020年春に誕生する新駅の名前が「高輪ゲートウェイ」に決まったとJR東日本が発表したのは、昨年12月4日のことだが、英語の名前をつけることに対する違和感をもつ人が多いようだ。「恥ずかしい」「みっともない」といった声も聞かれた。
そもそも国鉄(日本国有鉄道)が「JR」に変わったとき、「えっ? JR? ほんとに?」と、私などは強烈な違和感を抱いたものだった。
●世の中に氾濫する英語風カタカナ
だが、改めて振り返ってみると、私たちの周りには英語風カタカナ(フランス語風カタカナなどもあるが、英語風カタカナが圧倒的に目立つ)が急速に増殖している。ずいぶん前から、街を歩いていると、英語風カタカナの看板が目につくのを感じていた。だが、最近では、新興企業の名前のほとんどが英語風カタカナであったりするし、伝統的な企業が社名を英語風カタカナに変更する例もみられる。
会社名を英語風カタカナにするのは、海外にも通じやすいようにといった意図があるのかもしれない。だが、海外の人々がカタカナを読めるわけではなく、日本人に向けての社名表記をわざわざ英語風カタカナにしているのである。
英語風カタカナが目立つのは、店名や企業名に限らない。コンビニに入っても、「イートイン」と書いてあることがあるが、その意味がわからない人もいるようで、「ここで食べてもいいんでしょうか?」と老人から尋ねられたこともある。
多くの若者は英語風カタカナに戸惑うことはないようだ。喫茶店には「カフェ」の表示、メニューには「ドリンク類」の表示、しばらくすると「オーダーはいかがいたしますか?」と尋ねられる。若者は店のことを「ショップ」と言い、その入り口に「オールアイテム50%オフ」などといった表記を見るにつけ、そういえば以前は「全品半額」と表記されることが多かったなあと思い、英語風カタカナが急速に増殖中なのを感じる。
このような英語風カタカナがなぜ増殖していくのか。
さらには、英語そのものの表記も氾濫しつつある。
あるとき、ホテルのロビーにあるお手洗いの前で、中年の女性から「すみませんが、お手洗いはどこでしょうか?」と尋ねられた。そこで、すぐ前の扉を指差して教えてあげたのだが、そこには「REST ROOM」と記されていた。英語表記に慣れていないと、扉を開けていいものかどうか戸惑ってしまうわけだが、客のほとんどが日本人なのに、いくら外国人客も想定しているとはいえ、なぜ日本語が併記されていないのだろうかと不思議に思った。
親を温泉に連れて行ったときも、洗い場にある入れ物の表記がわからず、どれが洗髪用シャンプーで、どれが身体を洗う石鹸かわからなくて、隣の人に教えてもらったと母親が言うので、自分が入ったときに確かめてみたら、「Shampoo」「Body Soap」といった英語表記しかなかった。海外の客に向けて英語で併記するのはよいが、国内で使用されることが多い商品になぜ日本語が表記されていないのだろうか。
近所の喫茶店でも、「staff only」という表記を見て、客はいつも日本人ばかりなのに、「関係者以外立ち入り禁止」「関係者以外はご遠慮ください」でなく、なぜ「staff only」なのか。そして、定休日には「Sorry, we are closed」と記した札が入り口の扉にぶら下がっている。
●「ストロベリー」は「苺」と違うのか? 「ライス」は「ご飯」とは別物か?
アメリカ人の社会人類学者パッシンは、戦後の日本でのGHQの任務を解かれた後も、しばしば来日しており、日本に関するさまざまな興味深い考察をしているが、日本人が外来語を不必要に使うことへの違和感について述べている。
パッシンは、日本には苺という完全無欠な日本語があるのに、レストランの給仕が苺のことを「ストロベリー」と言う意味がわからないという。
ショッピングセンターに行っても、「なかに『フード フロア』という札がぶら下がっている。『食料品』というりっぱな日本語は、どうなったのだろう」。
パッシンのお気に入りだったM果物店があるとき「Mフルーツストア」に変わっていた。あるスナックでは、「ミート・アンド・サラダ」を食べさせる。「だが、ミートと肉とはどう違うのだろう。カレーライスのなかに入っているビーフ、あれは牛肉とは本質的に異なる、なにものかであろうか?」。
「ミルクと牛乳は別物か? ポークとブタ肉ないしはトンとのあいだには差があるのか?」
「私にはベジェテブルと野菜の差がとんとわからないのである。」
「なかでも心乱れるのは、この豊葦原瑞穂国に住んでライスを食う感じである。私の友人の説明によると、レストラン(カレーライス店を含む)で皿に盛ったご飯をフォークで食べるときだけ『ライス』と称するのだというが、どうもそうではないように思う」
今やショッピングモールなどは、英語風カタカナのほうが日本語よりも多いくらいだ。食料品とか肉、ご飯といった日本語がなくなってしまったわけではないが、フード、ミート、ライスなど、当たり前のように使われている。ホテルなどで皿に盛ったご飯をフォークで食べるときでなくても、ごく庶民的な和風定食屋でも「ライス」と表示されていたりする。
これが「ご飯」とは別種の何物かであるわけがなく、紛れもなくふつうの「ご飯」である。べつにアメリカ産の「ライス」を出すわけでもなく、日本の田圃でつくられた米を炊いた「ご飯」を出しているにすぎない。それをわざわざ「ライス」と言い換える感受性。
パッシンは、どうして日本人がそんなことをするのか、答を出すのは心理学者の仕事だとしている。
●刷り込まれる「英語はカッコイイ」「日本語はダサイ」という感受性
このように私たちの身の周りに増殖していく英語風カタカナは、けっして海外の人に向けてのものではなく、日本人に向けてのものと言わざるを得ない。
そこから窺えるのは、どうも私たち日本人の心のなかには、「英語はカッコイイ」「日本語はダサイ」といった感受性が潜んでいるのではないか、ということだ。
英語風カタカナは、いわば外来語を意味する。本来は、もともとそれに相当する日本語があれば日本語に翻訳し、日本語にないモノの名前や概念は翻訳しにくいため、外来語としてカタカナ表記をすることになる。アメリカになかった寿司や刺身が英語表記で「sushi」「sashimi」、甘えという心理的概念が「amae」と表記されるのと同じだ。
ところが日本では、もともと日本語があっても、わざわざ英語風カタカナにしたがる傾向があるのは、パッシンの指摘するとおりだ。それは、外国人からすると非常に滑稽で、不可解なようだ。
日本人が英語風カタカナを好むのは、コンプレックスの表れと考えられる。
今や、店名や会社名、モノの名前だけでなく、日常会話のなかにも英語風カタカナが用いられるようになってきている。
「私は、その件には、まったくコミットしていません」
「もう一度、ゼロベースで考えてみましょう」
「先方からオファーがあったので」
「MTG、3時からでしたっけ?」
「次回の打ち合わせ、リスケしてもいいですか?」
お互いに日本人同士で、純粋に日本語で会話しているのに、こうした英語風カタカナを好んで使う風潮が、ますます強まっている。ふつうに考えれば、あまりに不自然なわけだが、それを不自然に感じない感受性が、けっこう多くの日本人の心に植え付けられているような気がしてならない。
●英語風カタカナの氾濫の先にあるものは?
このような感受性は、海外流をやたら無批判に取り入れようとする心理傾向とも合致するものといってよいだろう。
そのような問題を考える際に、常々気になるのは、何かにつけて海外と違うと、「日本は遅れている」「日本はズレてる」といって、海外流に追随しようとする心理傾向だ。報道番組などで海外流が紹介されると、「そこが日本は遅れているんですね」といったコメントが続く、そんな光景をよく見かける。べつに遅れているというのではなく、ただ文化が違うだけ、ということが多い。
それにもかかわらず、「海外ではこうである。日本は遅れている」といった見当外れな発言が、いまだに無意識のうちに人々のコンプレックスに働きかけ、説得力を発揮している。
アメリカやドイツ、あるいはフランスやイギリスで、海外と何か違うところがあったとして、「自国は遅れている」などといって、海外流を慌てて取り入れようとするだろうか。
一例をあげれば、アメリカ流と違うからといって、年功賃金や終身雇用などの日本流を次々に崩し、成果主義を取り入れ、非正規雇用を増やしてきたが、アメリカ流によって苦しんでいるアメリカ人が非常に多く社会が混乱しているという現実からしたら、労働者の雇用と生活の安定を軽んじるのはいかがなものだろうか。
黒船来航以来、さらには敗戦以来の、日本人の心の深層に根づく欧米コンプレックスは根強いものがある。だが、もう少し地に足をつけて、コンプレックスに振り回されずに、冷静にものごとを判断するようになってもよいのではないか。
そのためには、まずは私たち日本人が無意識のうちにコンプレックスによって動かされていることを自覚する必要がある。「英語はカッコイイ」「日本語はダサイ」といった感受性をいつの間にか植え付けられていることを自覚しておく必要がある。
2020年の東京五輪を意識してか、日本語廃止、英語化推進の動きにますます拍車がかかっている感もある。スポーツの祭典のため、海外からの観光客との交流のために、自国の文化まで変えてしまおうなどという国が他にあるだろうか。それで独自な魅力を発する国になれるだろうか。
こうした動きはいったい何を意味しているのか。この国はどこを目指しているのか。この先に何が待っているのか。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」(産経新聞1970年7月7日付夕刊 表記を一部修正)
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)