先頃、教師が生徒を怒鳴りながら殴る映像がテレビのニュースで繰り返し流されていた。この種の報道に接するたびに思うことがある。

それは、今どきとんでもない教師がいたものだと印象づけるような報道が目立つが、果たしてそうだろうか、ということだ。

 私の子どもの頃は学校での体罰は日常茶飯事だったが、今は教育現場での体罰は固く禁じられている。SNSですぐに情報が流れ、マスコミがそれをすぐに嗅ぎつけ執拗に追及する時代ゆえに、学校側は体罰を厳しく禁じている。それにもかかわらず、しょっちゅう体罰事件が表面化する。なぜなのだろうか。

 私は、その背景には、子どものしつけや教育における、世の中全体の厳しさの欠如があると考える。

●学校の先生は滅多に怒らなくなった

 私が生徒の頃、学校には怖い先生がいたものだ。規則違反をしたり、やるべきことを怠ったり、悪ふざけが度を越したりすると、先生から酷く叱られた。先生は怖い存在だった。

 だが、今の子どもたちは、先生に対してやさしいイメージをもっている。

 2000年前後、私が教育委員会の仕事をしていた頃、中学ではうっかり生徒を叱ると保護者が怒鳴り込んでくるというのが話題になっていた。

「先生が怒鳴ったりするから、うちの子は怖くて学校に行けないって言ってるんです。
どうしてくれるんですか!」

「先生からきついことを言われて、うちの子はものすごく傷ついてます。ほめて育てる時代なのに、なんてことしてくれたんですか!」

などといったクレームがくる。そのせいで実際に不登校になるといった事例も頻出し、先生たちは生徒を厳しく指導することができなくなった。

 学校現場で生徒の教育にあたっている先生たちと話すと、そうした傾向は近年ますます強まっているようだ。先生たちは、生徒の背後には保護者がいることを常に意識するように管理職から言われ、体罰をしないのはもちろんのこと、厳しいことを言って傷つけないように細心の注意を払っているという。

 生徒の側は、どのようにみているのだろうか。

 私が、授業に出ている20歳前後の大学生や、通信課程で学ぶ20代の社会人に尋ねたところ、小学校、中学校、高校のいずれにおいても、先生が生徒を怒る姿はほとんど目にしたことはないという。クラスのワルがよほどの悪事をはたらいたときはさすがに怒鳴ることがあったが、そうした特別なケースを除くと、先生が生徒を怒鳴るようなことはほとんどなかったというのだ。

 では、生徒が規則違反をしたり、怠けたりしたとき、先生はどうしていたのかと尋ねると、先生は怒ったり叱ったりするのではなく「お話をする」というように表現する学生がいた。穏やかに諭すという意味だろう。

 20歳前後の大学生253名、および30代から60代の社会人学生91名を対象として、私が3年ほど前に実施した調査からも、先生たちが叱らなくなっていることがわかる。
 
 小学校時代に先生からよくほめられたという者は、大学生では53%なのに対して、30代以上では37%と大きな差がみられた。
よく叱られたという者も、大学生では25%なのに対して、30代以上では42%と大差がみられた。中学校時代や高校時代に関しても、まったく同様の傾向がみられた。

 学校の先生は、明らかにほめることが多くなり、叱ることが少なくなっている。

●しつけられていない生徒たち

穏やかに諭して、その真意を理解して反省し、自らの行動を修正できる生徒はよいが、それができない生徒も少なくないのではないか。

 そもそも学校教育以前に、家庭で厳しくしつけられていない子どもが増えている。人間というのは、どうしても安易なほうに流されやすい。「ほめて育てる」「叱らない子育て」というものが推奨されるようになって、子どもをほめるばかりで叱らない親が増えた。そのため、社会性を注入されないまま学校に通うようになる。そのツケが教師に回ってくるわけだ。

 今の子どもや若者を見ていて感じるのは、衝動コントロール力の低さである。嫌なことがあれば気持ちが沈んだり、腹が立ったりするのは誰にもあることだが、沈んだまま「心が折れた」といって立ち直れなかったり、堪えることができずにキレたりする。

 たとえば、小学校に入った途端に適応できずに問題を起こす生徒が非常に多くなっているが、小学生の暴力行為が急増しているところにも、衝動コントロール力の低さがあらわれている。


 文部科学省による2016年度の調査をみると、教育機関における生徒の暴力行為の発生件数は、5万9457件で、その内訳は小学校2万2847件、中学校3万148件、高校6462件となっており、中学校が最も多いものの、小学校は高校の3.5倍にものぼる。

 じつは、2011年までは小学校の発生件数は高校よりはるかに少なかったのである。2012年から小学校での発生件数が増え始め、ついに2013年に高校を抜き、2015年から年々さらに急増中で今や高校の3倍以上となっているのである。

 暴力にかぎらず、近頃の子どもたちの衝動コントロール力の欠如は無視できないところまで来ている。小一プロブレムなどといって、幼稚園から小学校への移行で躓く子どもが多いことが問題になっている。

 授業中に席を立って歩いたり、教室の外に出たり、授業中に騒いだり、暴れたり、注意する先生に暴力を振るったり、暴言を吐いたりする。

 まさにしつけの欠如によって社会性が注入されないのである。

●先生たちを追い詰める世間やメディア

 教育現場では体罰は禁じられている。だから教師の体罰は許されない。もちろんそうなのだが、メディアの報道に偏りがないだろうか。

 子どもたちに社会性が注入されないことの理由のひとつに、先生の責任を追及するばかりで生徒の責任を問わないメディアの報道姿勢の問題があると常々感じている。

 たとえば、数年前に起きた次のような体罰事件に関しても、私は報道姿勢の問題を感じたものだった。


 ある高校の教師が校外学習の集合時間に遅れた生徒96人を都庁前で正座させたことが判明し、その教師は「遅刻はいけないことだと指導するためだった」と説明したが、正座は体罰に当たるため、高校側は保護者会で謝罪し、教育委員会はこの教師の処分を検討しているというものだ(2015年7月11日付産経ニュース)。他のメディアも似たような内容の報道だった。

 たとえ正座が体罰に当たるとしても、この報道には抜け落ちている視点があるのが気になった。それは、96人もの生徒が遅刻するというような事態をなぜ問題視しないのかということだ。

 実態がわからないため、報道の範囲内で考察するしかないのだが、ふつうに考えれば、そんなに大勢の生徒が遅刻したのに、その異常な事態が問題視されずに、正座をさせた教師ばかりが謝罪させられ、処分までされるとしたら、生徒たちの規範意識はどんどん薄れていくに違いない。

 学校がこのような教育的視点の欠如した批判の目にさらされるとしたら、教師たちは今後どんな態度で生徒たちに接していけばよいのだろうか。こうした報道のあり方は、義務を果たさなくても権利は行使できると教えることにならないだろうか。

 当時、私はそのような見解を著書の中で記したのだが、体罰事件の報道に接するたびに感じるのは、先生がそのような行動に出た背景に何があったのかに関する視点が欠落しているということだ。そこに目を向け、改善の方向を模索しない限り、いくら体罰を禁じても、教育現場がまともに機能することは期待できない。

 実際、学生たちに訊いても、バイト先の店長に遅刻を叱られ、逆ギレして辞めた友だちがいるという声が多く寄せられた。中学や高校で遅刻をしても叱られなかったため、遅刻がそんなに悪いことだと思ってないのだろうといった意見もみられた。

「ほめて育てる」「叱らない子育て」が世の中に広まることで、子どもたちは規則違反をしても義務を怠っても、厳しく叱られることがなくなった。
子どもというのはまだまだ未熟なものだし、どうしても安易なほうに流されやすい。そこで、厳しく叱られることがなければ、規則違反や怠慢が横行することになる。

 事なかれ主義の先生は、これも時流だと諦めるかもしれないが、使命感をもって教育に当たっている先生は、見過ごすことができず、つい生徒と衝突してしまう。そんな構図があるのではないだろうか。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)

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