昨日、仙台で仕事をしていたのですが、ホテルのテレビで東日本大震災の特集を見ていました。「これから津波の映像が流れます」とテロップが流れてから、津波の映像が始まったのですが、まだ津波の映像を見る事ができない方々がたくさんいらっしゃるのだと、8年前のある出来事を思い出しました。
8年前、3月11日の東日本大震災から1カ月後の4月18日。前日に京都市交響楽団とのマーラーの交響曲第一番“巨人”を終え、僕は軽く疲れを覚えながら仙台へと飛んでいました。仙台空港も津波の被害を大きく受けましたが、在日米軍の協力もあり1週間前に再び使用できるようになっていました。
仙台市の東北文化学園が授業と地域貢献の一環として、ベートーヴェンの『第九』を学生たちの合唱で行いたいと、僕に指揮を依頼されたのは震災の前でした。当時、僕は英ロンドンに在住していたので日本にいる時間が少なく、ちょうど帰国に合わせて宮城・仙台を訪れることになっていたのです。
仙台空港に到着し、自動車で仙台市内に向かったのですが、僕の予想をはるかに超えた光景が広がっていました。津波で破壊された食堂の横には、セスナ機をはじめとして空港関係車両や一般車が山のように積まれたままになっています。そして、高速道路に入ると、津波がすべてを飲み込み荒野のようになった風景が海岸線まで広がっていました。あの土の下には、多くの行方不明の方々が埋まり、幸せな家族の生活がすべて埋め尽くされてしまっているのだと思い、僕はただただ見つめているだけでした。
学園に到着し、翌年以降に計画されている『第九』の協議を終え、僕はそのまま家族が待つロンドンの自宅に帰りましたが、仙台空港からの光景が脳裏から離れません。東京電力福島第一原子力発電所の事故も深刻さを増していたこともあり、当時の学園理事長の「この震災の復興には、最低でも10年はかかる。その間、被災した学生のサポートを続けながら、復興を願う第9として、10年間は続けるつもりです」というお言葉が心に残っていました。
僕の中で「音楽家に何をできるのか?」との疑問が、「音楽家だからこそ、何をするべきなのか?」という考えに変わってきたのです。そこですぐに、学園に宛てて次のようなメールを書いていました。
「今年だからこそ、被災地で『第九』をやりたい」
当時は、被害者の方々へ向けた鎮魂のコンサートが多かったし、そんななかで“歓喜の歌”である『第九』をやるのは不謹慎だというご意見もあったと、あとから聞きました。しかし、こんな時こそ、東北の方々を音楽で力づけることが必要なのではないかという思いが、僕の中で信念のようになっていました。
学園側も深く理解を示し、方々に奔走して下さった結果、被災地の大船渡で『第九』をできることになりました。大船渡は約500名の死者・行方不明者が、23メートル以上の高さの津波に飲み込まれた市です。そんななかで、開催場所の大船渡市民文化会館リアスホールは高台の上に位置していて、奇跡的に被害を免れていたのでした。
●被災者から多くのものを受けた演奏会
2011年12月16日のコンサート当日、僕は朝早くに仙台を出発し、大船渡に向かっていました。東北文化学園の合唱団と、同じくボランティアで参加してくれていた東北大学の学生オーケストラも同じ場所に向かっていました。彼らの多くは東北出身で、家族や友人が被災している方々も数多く、そんななかで学園側が特に心配していたのは、あるひとりの女子学生のことでした。
彼女自身は被災していなかったのですが、当時付き合っていた彼氏が津波に飲み込まれてしまいました。
さて、僕が乗っていた自動車は、気仙沼の手前で通行止めになっていた高速道路を下り、空き地のようなところを走っていました。急に運転手が何もないところを指さして、「ここに家があったんですよ」と話し始めました。この方も、当時は避難所暮らしをしていました。そして、気仙沼市内に入ると、テレビで見た、津波で建物の上に乗ってしまった漁船が見えてきました。僕はそんな光景を見た時、不思議なことに茫然としていました。人間は、極度に驚くと感情が無くなるのかもしれません。
その後、被災地最大の約1800人の死者・行方不明者を出し、市全体が壊滅してしまった陸前高田に入りましたが、高台で休憩しながら何も無い市内を眺めていても、悲しみや嘆きの感情すら出てきません。しかし、ただ自然と涙が流れるのでした。わずか1年前には、子供たちが走り回り、老人たちはそれを幸せそうに眺め、大人たちも大声で笑ったり、泣いたりしていたのです。当たり前の幸せが一瞬で奪われた町や小さな村をたくさん見ながら、大船渡に到着しました。
大船渡では、地元の合唱団の方々も参加してくれました。被災した方々も多く聴きに来てくださり、演奏会の最初に黙とうをささげた際には泣いていらっしゃった、被災した聴衆の方々が、『第九』を聴いた後は笑顔で帰って行かれたのです。僕は「音楽家になって良かった」と、心から思いました。
そんな僕に、大きなことを教えてくれる出会いがありました。終演後、地元の合唱団の代表の方が楽屋にご挨拶に来られたのですが、「今日はありがとうございました。篠崎さん、お体を大切にしてください。家族を大事に」と、何度もおっしゃられたのです。僕は人前にもかかわらず、涙があふれ出しました。
僕は少し間違えていました。音楽家として何かできないかという気持ちでここに来たのに、被災者の方から、心からの温かい言葉をかけていただきました。僕がかけようと思っていた言葉を、反対にかけていただいたのです。今回の『第九』は、演奏した方々も、聴かれた方々も、皆さんが被災者でした。なぜ彼らが『第九』を演奏するのかといえば、これからは笑顔で復興に向かって、自分たちの力で前に進みたいという気持ちだからなのです。そんなときに、僕ひとりが泣きながら『第九』、すなわち“歓喜の歌”を指揮してどうするんだと思わされました。
翌日、仙台市内の東北文化学園の体育館で、もう一度『第九』を演奏しました。僕もしっかりと前を向いて指揮をしました。70分以上かかる演奏中、ずっと泣いていた聴衆の方々が何人もいたと後で聞きましたが、終演後は皆さん笑顔で帰って行かれました。僕は音楽と、そして何よりも人間の力を深く理解しました。皆さんを音楽で力づけようとしたつもりが、多くのことを皆さんから与えていただいた時間でした。そして、僕の音楽に対する向き合い方が大きく変わった出来事でもありました。
最後になりますが、被災地の1日も早い復興をお祈りしております。
(文=篠崎靖男/指揮者)