八王子というと今は大学の街というイメージだろうか。駅でいうと高尾方面になるが、江戸時代以前は八王子城という城があり、北条氏が支配していたが、北条氏が秀吉に滅ぼされて1590年、八王子城は落城した。



 その後、八王子は甲州街道の宿場町となる。1652年には「宿駅」(しゅくえき)という江戸時代の重要な拠点となった。これは幕府の貨物を無料で運ぶための駅であった。横山、八日市、八幡、八木など15の宿場ができた。中心は横山と八日市で、甲州街道大通りといわれた。今もそこが八王子市街地の中心である。


 そして旅人のために飯盛り女という名前の売春女性が1718年に許可されて、その後、飯盛り女を置く宿屋「飯盛り旅籠(はたご)」が横山宿と八日市宿にかけて十数軒できた。ただし実際は許可されていない宿屋でも同様のことが行われていた。また、飯盛り旅籠は遊廓のように囲われた地域にあるのではなく、街道沿いに点在していた。1カ所に集中すると宿場全体が儲からないからである。

 八王子は、明治以降は絹織物の街として栄えた。ユーミン(松任谷由実)が八王子の荒井呉服店の娘だということはファンなら知っているだろう。
宿場では絹織物のほか、紙、麻、木綿織物、塩、薪などが売られ大変に栄えた。

 また、八王子周辺で生産された生糸、それから織られた反物、着物、ハンカチーフなどが国内のみならず、横浜から海外に輸出され、外貨を稼いだ。1921年には八王子の織物生産は最高潮に達し、生活のモダン化に合わせて日本一のネクタイ産地となった。

 1877年の内国勧業博覧会には、八王子から40人近くが参加、3名に優秀賞が授与された。1899年には八王子織物同業組合が結成。90年の内国勧業博覧会では小川時太郎の出品した綾糸織が一等有功賞を受賞するなど、その技術力において八王子の織物は高い評価を得たのだ。


●特殊慰安施設「RAA」の設立

 儲かった織物業者たちが夜ごと集まり、料亭で芸者を呼び、遊び、接待をした。こうして八王子に花街が発展した。大正時代には芸者数200を超え、1952年には料亭45軒、芸者215人であり、1960年頃まで繁栄が続いた。その後次第に衰退していくが、最近はまた新しい芸者さんが増えて、勢いを盛り返している。

 一方、飯盛り旅籠は1873年には「貸座敷」と名を変えた。94年には正式に「八王子遊廓」と指定されて不夜城のように栄えた。
貸座敷の収入は八王子の税収を潤わせた。1891年の税収の内なんと29%が貸座敷によるものであった。

 ところが97年に大横町から火事が出て遊廓は焼失した。そこで遊廓は元横町の田んぼをつぶした土地に移転した。これが「田町遊廓」であり、遊廓らしく1地域に限定された。貸座敷の数は14~20軒。
娼妓(売春をする女性)は100人ほどだった。

 昭和初期(1930年頃)の地図を見ると、ほぼ長方形の遊廓の南側に、料理屋萬とく、西洋料理喜らく、好華園、小平蕎麦店、寿々松、歌の家、蓬莱、洋食福松、好月、割烹若松楼などの飲食店らしき名前が見え、それと混じって、織物工場、絹機械製作所、機業工場、撚糸工場などが多数見える。

 そして第二次大戦後の一時期には、RAA(レクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション)が設立された。日本国政府が一般婦女が暴行を受けることを防ぐためにつくった特殊慰安施設、つまり売春施設をつくるための協会である遊廓は、米軍軍人によって独占された。とはいえ米兵相手に売春をするとは知らずに集められた女性も多い。自国の女性を使ってこうしたことをした日本政府が、占領国で他国民の女性を使って同じことをしなかったとは思えないが、どうだろう。
米兵たちはトラックに乗って遊廓にやってきて、遊廓から八王子駅北口までの1kmほどに及ぶ行列をなしたという。

 だが性病の蔓延のためにRAAは半年で廃止され、遊廓は日本人向けの赤線となったのだった。2年前に訪ねた田町には、元遊廓と思しき廃墟のような建物が一つ残り、その隣に、これも元遊廓なのだろうか、木造建築をリノベーションしたカフェができて普通の女性客などで繁盛している。

 女性の悲しい歴史の上に、新しい時代がある。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

参考資料
わだち編『八王子遊廓の変遷』かたくら書店、1989
八王子郷土資料館『八王子の産業ことはじめ』2014