●「平成」は証券業界の黒歴史
2019年5月16日の日本経済新聞は、「大和、野村の『お株』奪う」と題して、大和証券グループ本社が日本郵政グループと投資信託などの資産形成分野で協業を検討すると報じた。
曰く。
しかし、実は大和証券グループ本社もかつて、金融機関の提携で煮え湯を飲まされた過去を持っている。金融機関の提携で翻弄されたのは、大和証券グループ本社ひとりだけではない。平成という時代は、証券業界が金融機関の提携(というより銀行)に翻弄されたという意味で、いわば黒歴史なのである。
元号が昭和から平成に変わった1989年。日本経済は空前のバブル経済に沸いていた。しかし、1990年代前半のバブル経済崩壊で一転して低成長を余儀なくされ、金融機関の多くは不良債権に悩まされることになった。
戦後、日本の証券業界は「四大証券」と呼ばれた野村證券(現・野村ホールディングス)、山一證券、大和証券(現・大和証券グループ本社)、日興證券(現・SMBC日興証券)がリードしていたが、1997年に「四大証券」の一角である山一證券が破綻してしまう。
●「四大証券」の一角、山一證券の破綻
1997年は、山一證券のみならず、戦後日本で初めて生命保険会社(日産生命保険)、都市銀行(北海道拓殖銀行)、証券会社(三洋証券、山一證券)が破綻し、「平成金融危機」「平成金融恐慌」と呼ばれた。
バブル経済の「財テク」ブームの波に乗って、ホールセール(法人、大口取引)に強い山一證券は、多くの企業から資産運用を任され、1986年には全上場会社のなかで9位の収益を上げるまでに躍進する。しかし、その資産運用には大きな副作用があった。
こうした証券会社の損失補填は山一證券に限ったことではなかったので、事態を重く見た大蔵省(現・財務省、金融庁)は、1989年12月、証券会社の「損失補填はまかりならん」との通達を出した。大口取引先の企業と大蔵省通達との間の板挟みになり、困った証券会社は、顧客企業の損失を補填しつつ、その損失をペーパーカンパニーや海外子会社に付け替えて簿外処理すること(いわゆる「飛ばし」)でごまかした。ところが、1991年6月に、大手証券会社の損失補填が発覚する。その結果として、野村證券、日興證券は社長が引責辞任して膿を出し、損失額を明らかにして時間を掛けて穴埋めしていった。
しかし、山一證券ではそうした自浄作用が働かなかった。
当時はまだバブル経済が崩壊したかどうかという局面であり、本格的な低成長には入っていなかった。そこで、山一證券は社長以下、経営陣が居座り続け、「株価はいつか上がる」と判断。損切り(損失覚悟で値が下がった株式を売却)せずに放置した結果、株価暴落で莫大な損失を抱えてしまう。その簿外損失は2468億円にものぼったという。
1997年11月17日、北海道拓殖銀行が破綻を余儀なくされると、山一證券は隠し続けていた簿外債務の存在を大蔵省証券局に報告。延命を図ったが、大蔵省はかばいきれないと見て、山一證券に自主廃業を通告したのである。
●実は2度目だった山一證券の経営危機
実は山一證券の経営危機は、この時が初めてではない。
1960年代中盤の証券不況で、山一證券の経営状態が急激に悪化。銀行が中心となって秘かに救済策を取りまとめている最中、1965年5月22日に西日本新聞が「山一證券危機乗り切りへ」とスクープして経営危機が発覚、山一證券の店舗では取り付け騒ぎが起きて騒然となった。
大蔵大臣・田中角栄(のちの総理大臣)は、日銀氷川寮に日銀総裁、関係銀行の頭取、大蔵省幹部を集め、対応を協議。傍観者づらした某銀行頭取を一喝して、無担保・無制限の「日銀特融」発動を決め、山一證券の危機を救ったのである。
しかし、1997年の山一證券破綻時には、銀行は支援してくれなかった。もっとも、その原因は山一證券自身にあったといえよう。メインバンクの富士銀行(現・みずほ銀行)は、山一證券の隠蔽体質では損失額が把握しえないと判断、経営支援に後ろ向きだったという。
ただし、世間はそうは見ていなかった。山一証券が破綻すると、「富士銀行は助けなかった」のではなく、「富士銀行には助けるだけの体力がなかったのだ」と、富士銀行(旧・安田銀行)と安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)への信用不安が駆け巡った。富士銀行は単独で安田信託銀行を救済することが難しいと腹をくくり、第一勧業銀行(現・みずほ銀行)と提携して安田信託銀行を救済。その時の信頼感から、経営統合に進んだ。
いわば、みずほFGの誕生は、山一證券破綻の副産物だったといってもよいかもしれない。
●期待外れだった「平成の薩長連合」
「四大証券」の一角である山一證券が破綻すると、証券会社への信用は地に墜ち、残る3社はそれぞれ大手銀行や外資系金融機関と提携することで、信用保証をアピールせざるを得なくなっていく。
まず、1998年5月に野村證券が、日本興業銀行(現・みずほ銀行)と業務提携を発表した。
提携を持ちかけたのは、日本興業銀行のほうだといわれている。当時、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行の経営不安がささやかれ、長信銀という業態のままでは生き残りが難しいとの認識が広がっていた。そうした状況を打開するため、日本興業銀行は野村證券との業務提携を選んだのだ。当時、証券業界は信用不安で、信用力を相互補完する相手を探しているところだったから、野村證券としても渡りに舟といったところだろう。
野村證券はいわずと知れた「四大証券」の筆頭で、日本興業銀行は長信銀トップで日本を代表する大手銀行だったので、両社の組み合わせは「平成の薩長連合」または「日本連合」と呼ばれ、大いに期待された。しかし盛んだったのは新聞報道だけで、大した成果は得られず、いつの間にか解消してしまった(日本興業銀行がみずほFGへの経営統合を発表するのは、その翌年のことだ)。
(文=菊地浩之)
●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。