実在の精神疾患を扱う『ムーンナイト』の背景。マーベルがドラマ...の画像はこちら >>



Text by 山元翔一
Text by TPB-Man



ある調査によると、コロナ禍によって日本人の約3割が睡眠の質の低下を実感しているのだという。終わりの見えない自粛生活に誰もが大なり小なり心身に負担を感じていることだろう。



そんな時代を反映してか、睡眠障害を患い、精神的な脆さを抱えるヒーローを取り上げたマーベルドラマ『ムーンナイト』がスタートした。オスカー・アイザック演じる主人公、スティーヴン・グラントは解離性同一性障害、かつて多重人格障害と呼ばれた症状を患い、自らの周りで起こる不可解な事象に悩まされている。



じつは近年、この解離性同一性障害という実在する疾患をコミックの設定に盛り込むにあたり、マーベルのクリエイターによる慎重な議論が行なわれたのだという。今回のドラマ版においては、アイザックが自らの役目のひとつとして「メンタルヘルスに関わる部分を真摯に扱うこと」を挙げており、実在の精神疾患を設定に導入するにあたって社会的な影響まで含めて配慮を施している様子が窺える。



『ムーンナイト』はなぜ、解離性同一性障害という設定を持つことになり、そのキャラクター像はどんな変遷を辿ってきたのか? コミックにおいてその内面、精神や心理がどう描かれてきたのかを紐解いていく。



マーベル・コミックスという出版社は、「永遠の悩める青年」スパイダーマンを筆頭に、読者が共感しやすい、等身大の悩みを抱えたヒーローを多数擁している。かつては『スパイダーマン』で麻薬問題を取り上げたり、いち早く黒人ヒーローであるブラックパンサーを誌面に登場させたりと、つねに社会にある「いま、語るべき物語」を取り上げることに積極的だった。



そして、それら「語るべき物語」を描くにあたっては、作家陣のみならず、編集者も腰を据えて、そのリリースをバックアップするというのが、マーベル世界の創造者である編集者兼ライターの、スタン・リー以来の姿勢だった(前述した『スパイダーマン』の麻薬問題を扱った号は、業界自主規制団体「コミックス・コード・オーソリティ(CCA)」から出版の承認を受けられなかったが、スタン・リーはあえてCCAの認可なしで同誌を刊行する気概を見せた)。



そうした「語るべき物語」を持った作家陣の意気と、編集者の後援もあり、1980年にはじまった『ムーンナイト』第1シリーズは、高い読者人気を得たまま全38号で完結。そして同作で描かれた、精神的な脆さを抱えるムーンナイトのキャラクターは、以降のコミックでのムーンナイトの描写の基礎となる。



ムーンナイトの初登場は1975年。マーベル・コミックス社の刊行する怪奇コミック誌『ウェアウルフ・バイ・ナイト』第32号の悪役として生み出された。



その生みの親であるライターのダグ・マンキは、彼を同誌の主人公であるウェアウルフ(狼男)のライバル的存在にしようと、狼男の能力源である「月」をモチーフにしたコスチューム(宙を舞うとマントが三日月形に広がる)を考案し、狼男の弱点である銀製の武器(銀製の三日月形手裏剣など)で武装させた。



実在の精神疾患を扱う『ムーンナイト』の背景。マーベルがドラマ化した「いま、語るべき物語」

ドラマ『ムーンナイト』キャラクタービジュアル(C)2022 Marvel



そんな具合に、割合安易に創造されたムーンナイトだったが、なぜだか当時のマーベルの編集者たちに気に入られ、その後いくつかのコミック誌に、悪を懲らすヒーローとして再登場していく。やがて充分な人気を博したムーンナイトは、1980年に単独のコミック誌『ムーンナイト(第1シリーズ)』も獲得するのだった。



生みの親であるダグ・マンキがライターを務める同シリーズの創刊号で、初めてムーンナイトのオリジン(誕生秘話)も語られる。

傭兵マーク・スペクターは、エジプトでの活動中に、残忍な上官ブッシュマンに反抗した末に重傷を負わされ、砂漠に放置される。彷徨の末に古代遺跡にたどり着いたスペクターは、疲労から死亡するが、ほどなくして遺跡に祀られていた古代エジプトの復讐の神コンシューの彫像の加護により蘇生する。

彫像にかけられていた純白の外套をまとい、ブッシュマンの配下を打ち倒したスペクターは、以来、コンシューの化身「ムーンナイト」を自称し、犯罪との闘いを開始する。

スペクターは、犯罪との戦いを行なうにあたり、上流階級に顔の利く富豪スティーヴン・グラント、市井に通じたタクシー運転手ジェイク・ロックリーという2つの人格をつくりだし、スペクター、グラント、ロックリー、そしてムーンナイトの4つの人格を使い分けることで、犯罪との戦いの助けとする。
- コミック版第1シリーズで明かされた『ムーンナイト』のオリジン(筆者執筆)

実在の精神疾患を扱う『ムーンナイト』の背景。マーベルがドラマ化した「いま、語るべき物語」

ドラマ版『ムーンナイト』第1話は、スティーヴン・グラント(オスカー・アイザック)を主人公とし、ロンドンの博物館のギフトショップで働くスタッフという設定で描かれている(C)2022 Marvel



この『ムーンナイト』第1シリーズは、第15号から当時のマーベルの流通への試行の一環として「コミックショップ専売」の作品となったために、対象年齢層が高めに想定され(少年層よりも上の、コミック専門店に通う青年層を想定)、結果、主人公であるマーク・スペクターの内面や、その人間関係の描写に重きが置かれるようになった。



自身がコンシューに蘇生されたと確信するスペクターは(彼の友人たちは、彼が妄想に囚われていると思っている)、コンシューの代理人として、世の犯罪者に正義の鉄槌を振るうことに執念を燃やす。しかしそのコンシューへの執着は、ときに弱点ともなる。



『ムーンナイト』第10号で、仇敵ブッシュマンによりコンシューの彫像(エジプトからグラントの屋敷に運び込まれていた)を破壊されたときには、スペクターは「自分の活動はすべて無価値で、ニセモノに過ぎなかった」と絶望し、すべてを投げ捨てて路上生活者に身を落とすほどの精神の脆さを見せた。



また、『ムーンナイト』第22号で、悪夢を操る怪人モルフェウスと戦った際には、ムーンナイトは「お前の自己破壊願望を適えてやろう」とうそぶくスペクター、グラント、ロックリーの3人に襲われるという悪夢を見せられている。



実在の精神疾患を扱う『ムーンナイト』の背景。マーベルがドラマ化した「いま、語るべき物語」

ドラマ版『ムーンナイト』第1話より。自らのなかに潜む別の人格と直面するスティーヴン



一方で、『ムーンナイト』のコミックは、市井の人々の抱える心の闇をも描いていった。『ムーンナイト』第26号に掲載された、「ヒット・イット!」という話は、幼い頃に父親から虐待を受けていた青年が、新聞の死亡記事に父の名前を見つけたことから、二度と彼に殴り返せないことを憤り、道行く人を無差別に殴りつけ、やがてムーンナイトに倒される……という、やるせない物語であった。



この話はもともとマンキが埋め草用に8ページの短編として書いたものだったが、アーティストのビル・シンケビッチが、この話に強く肩入れし、より長い物語として描くことを志願したのだという(マンキによれば、シンケビッチ自身も虐待を受けていた過去があり、ある種のみそぎとして、この話を満足いくかたちで描きたかったのだという)。



この時期、シンケビッチは執筆スケジュールが遅れがちだったが、『ムーンナイト』の担当編集者デニス・オニールは、26号の全32ページ中16ページを「ヒット・イット!」に割り当て、残りのページに載せる短編を自ら書くなどして(オニールはライターから編集者に転身した身だったため、こうした対応もできた)、シンケビッチが最大限に筆をふるえるよう計らった。



やがてコミックの対象年齢層が全体的に上がり、キャラクターの掘り下げがより重視されるようになると、ムーンナイトの精神的な脆さは、「いま、語るべき物語」を抱えるライターにとっては恰好のモチーフともなった。



実在の精神疾患を扱う『ムーンナイト』の背景。マーベルがドラマ化した「いま、語るべき物語」

『ムーンナイト』第1話より。ドラマ版のスティーヴンは睡眠障害を持ち、夜通し悪夢にうなされては夢とも現実とも区別のつかない幻覚、自らの身に覚えのない言動に悩まされている



2006年、クライムノベル作家のチャーリー・ヒューストンを招いて創刊された『ムーンナイト』第5シリーズは、仇敵ブッシュマンとの死闘の末に、誤って彼を殺してしまったムーンナイトが狂気に飲まれ、ブッシュマンの幻影に悩まされながらも犯罪者との凄惨な戦いに没頭していく……という内容で注目を集めた(一方で、ムーンナイトの相棒のフレンチーが同性愛者であったことが判明し、そのパートナーとともに差別主義者に暴力を振るわれるという、現代的なテーマも語られた)。



なおその後、ブッシュマンの幻影は、ムーンナイトの守護者であるコンシューが、彼を導くためにまとっていた仮の姿であることが判明する。この設定は、ムーンナイトの常軌を逸した行動が、「当人の精神の脆さ」あるいは「コンシューが彼の精神に影響を及ぼしているため」という、二通りの解釈ができる余地を与えることになり、彼の精神の脆さに多層的な味わいを与えていく。



一方2011年、当時のマーベルの看板作家ブライアン・マイケル・ベンディスを迎えて創刊された『ムーンナイト』第6シリーズでは、ムーンナイトは「解離性同一性障害を発症し、脳内にウルヴァリン、スパイダーマン、キャプテン・アメリカを模した3つの新たな人格が芽生えた」という、彼の精神の脆さを最大限に盛った再解釈が行なわれた。



実在の精神疾患を扱う『ムーンナイト』の背景。マーベルがドラマ化した「いま、語るべき物語」

ブライアン・マイケル・ベンディス(作)、アレックス・マリーブ(画)、堺三保(訳)『ムーンナイト/光』書影



作中でのムーンナイトは、状況に応じて人格を交代させつつ(潜入捜査のときはスパイダーマン、暴れるときはウルヴァリンの人格に交代)、ヒーロー活動を行なっていくが、この描写は解離性同一性障害というより、フィクション的な都合のよい多重人格であり、賛否両論を呼んだ。



同作の反省からか、続く2014年創刊の『ムーンナイト』第7シリーズでは、「ムーンナイトは解離性同一性障害ではない」「かつて超次元の存在であるコンシューが、スペクターの内に入り込んだ結果、彼の脳に変化が生じ、結果、多重人格者的な振る舞いをするようになった」といった具合に設定が変更された。



続いて2016年に創刊された『ムーンナイト』第8シリーズ(ライターは一風変わったヒーローものを得意とするジェフ・レミーレ)は、記憶をなくしたマーク・スペクターが精神科病院に入れられているという衝撃的な導入にはじまり、やがて己を取り戻したムーンナイトが、コンシューら古代エジプトの神性たちの争いに巻き込まれていく……という幻夢的な世界(過去と現在、幻覚や神の世界が無秩序に交錯する)を描き、異界の神性コンシューについて深く掘り下げた。



また、本シリーズでは「スペクターは幼い頃にコンシューの接触を受けた結果、解離性同一性障害を発症していた」という設定もつけ加えられ、ムーンナイトの精神状態はさらなる複雑さを増す。



コミック上での『ムーンナイト』のキャラクターの変遷を駆け足気味に紹介してきたが、近年のムーンナイトは、「解離性同一性障害」という現代的な悩みを抱えた彼のキャラクターを、各々の作家がそれぞれの「語るべき物語」に合わせて自由に改変していった、試みの歴史と言える。



一方で、Disney+のドラマ版『ムーンナイト』のプロデューサー兼脚本家のジェレミー・スレイターも、こうしたアプローチには自覚的で、最近のインタビュー上では、「我々が送り出すものは、何であれ、良質で励みとなるもの──本作においては精神衛生についてポジティブなメッセージを与えるものでなければならない」とコメントしている。



果たしてドラマ版の『ムーンナイト』が、どのような「いま、語るべき物語」を提示するか、お手並み拝見といきたい。

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