Text by 山元翔一
Text by 高島鈴
Text by つやちゃん
<死にたいと思うのはなぜ / 生きたいと思うのはなぜ / 死ねと叫ぶのは誰 / 生きろと叫ぶのは誰>(”春火燎原”)
4月22日に発表されたアルバム『春火燎原』(シュンカリョウゲン)のなかで、春ねむりはこう歌う。「死にたい」と「生きたい」の狭間で生々しく揺らぐ命、その寄る辺のない魂が身を置く過酷な社会の実情が浮かび上がる。
四字熟語「星火燎原」をもじった造語。「星火燎原」とは、星のように小さな火も、燃え広がると広野をも焼き払うというところから転じて、反乱や一揆が次第に大きくなっていき、防げなくなることをたとえたもの。春になり生命がいっせいに目覚めるとき溢れ広がるエネルギーのように、魂の火が燃え広がるさま。- 春ねむり『春火燎原』特設サイトより
春ねむりが掲げる、もしくはそのなかに灯る、あるいは燃えたぎる魂の火。その火は、何を照らし暖め、何を焼き払おうしているのか。2022年の『SXSW』で、春ねむりは自らが敬愛するロシアのフェミニストパンク集団、Pussy Riotと共演。その事実と示し合せるように、本作でこう唱える。
<この星のすべての悲しみを道連れに / 消えてしまえればよかったけど / 死に損なったriot grrrl>(”春雷”)
この詩を受けて続くのは、<いのちだけが光っている>というメロディーを伴った一節だ。
春ねむりによって放たれた、その言葉、そのメロディー、その叫び、その声は、何を伝えようと訴えているのか。高島鈴、つやちゃんのふたりがレビューする。

春ねむり(はる ねむり)
神奈川・横浜出身のシンガーソングライター / ポエトリーラッパー / プロデューサー。

左から:春ねむり、ナジェージダ・トロコンニコワ(Pussy Riot) / クレジット:Daniel Cavazos / Flood Magazine
私は祈りを棄却する者を信じない。すべての行動・言動の根幹には、まず祈りがあると考えているからである。
それは何か特定の神に願いを捧げるという意味ではなく(人によっては祈りはそのような形態を持つだろうが)、何かにこのようにあってほしい、と願う根源的な力を信じるということだ。虚妄やステレオタイプや世界において信じられている「正常」の押しつけではなく、ただ対象に向かって、そのあり方の行く末を真摯に祝福することだ。
春ねむり『春火燎原』が挑んでいるのは、極めて壮大なスケールの祈りではないのか、と思った。

春ねむり『春火燎原』を聴く(ストリーミングサービスで聴く)
春ねむりが伝えようとしているのは、自爆しながら自己再生し続けるような、怒りとまどろみ、愛と憎しみ、そして生と死の狭間から立ち上がってくるエネルギーそのものである。それを肯定しているとまでは断言できないように思う。ただこのアルバムは、明らかに春ねむりが言わざるを得なかったことと表出させざるを得なかったことだけから成り立っている。
そのあり方が嫌悪の対象になることは容易に想像できる。同時に『春火燎原』のあり方を受け止めることは、他者の存在を受け止めることと極めて近しい意味を持つようにも思われる。
現代において、真の感情をもつものは、破壊的か、自己破滅的か、このふたつにひとつしかない。(…)- 平岡正明『ジャズ宣言』(現代企画室、1990年、P.10―11)
感情の猛々しさは、ついに生き死にが問題でない瞬間へとひとをうながす。優秀なジャズメンはくたばり急ぐ。まるでそのような法則でもあるかのように早死だ。俺はかつてそれを名づけて言った。――自己テロル。
かつて平岡正明はこのように述べた。膨れ上がった感情が人間を死へと急がせるのだと。だが自己テロルが「ジャズメン」を対象に論じられた概念であるように、その筆致は明確にマッチョだ。
「生き死にが問題でない瞬間」、いや、むしろ破壊と自己破滅の間に揺れ、「生き死にばかりが問題になる瞬間」を震えながら生きている者の足取りこそ、2022年に描きなおされるもうひとつの自己テロルだとは言えまいか? 春ねむりの音楽を聴いているとそのような想像まで膨らんでくるのだ――春ねむりが「音楽ナタリー」のインタビューにおいてその音楽的ルーツの多様性について問われ、「ジャズだけ入ってない感じですね(笑)」と答えているのは(*1)、あながち偶然の符号でもないかもしれない。
生と死、その谷間をふらつくのは、春ねむりの歌詞世界においては「聖者」である。そして同時に「聖者」ではない。
死んでしまいたいと生きていたいの間を- “ゆめをみている”
行き来して生きていく聖者たちの行進
地上じゃ使えない羽だけを持っている- “春火燎原”
聖なる列にもぼくの番号はないけれど
炎に呑まれて溺れ続けるぼくを
憐れんだやつを端から殺してやる
このふたつの歌詞を並べてみるとき、見えてくるのは列聖されない=奇跡を起こせないままのたうち回る身に、春ねむりが認め、祝福している聖性である。

春ねむり“ゆめをみている (déconstructed)”を聴く(YouTubeで聴く / Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く)
後者に挙げた“春火燎原”は、宮沢賢治『よだかの星』の朗読からつながり、「今でもまだ燃えています」という『よだかの星』最後の一文のコーラスからはじまっている。
よだかはあらゆる者から「醜い」「卑しい」と疎外され、鷹から名前をあらためなければ殺すと脅された末、きょうだいに不殺生を説いてから、天へ昇って星になり果てる。よだかはたしかに命を落とすが、天体という新しい命を得て、「今でもまだ燃えて」いるのである。
“春火燎原”のフックは、それを耳にした誰もが忘れられないであろう、<Blinking here>――「ここで明滅している」――という絶叫だ。
春ねむりの歌う「聖者」たちは、“シスター with Sisters”にもあらわれる。
いつかきみが飛び込んでしまった海を- “シスター with Sisters”
いまはふたりで臨んでいる
あの日一度死んできみは
鉄の羽根をもつ少女になった
海に飛び込み一度死んだ者とは、文字どおりの意味でもあるだろうし、かつての自己をも指すだろう。大事なのは何か――社会のなかに置かれた「シスター」たちにかけられているすさまじい抑圧の、何らかの表出――に衝突し、「殺された」者が、鉄の羽を伴ってシスターフッドの輪に加わっていることだ。
ねえシスター- “シスター with Sisters”
いま火を放って
燃えあがる水平線に包まれる
はじめるための終わりをはじめる
シスターたちはすべてに火をかけはじめる。自分を殺したものに火をかけるために、相手を「シスター」と呼ぶ。鉄の羽は破壊者の印であり、内輪のアイコンでは決してない。生きていようがいまいが、この破壊者の輪=シスターフッドに加勢できることは、ひとつの希望である。「生き死にばかりが問題になる瞬間」を生きる「聖者」にとっては特に。

春ねむり“シスター with Sisters”を聴く(YouTubeで聴く / Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く)
このように書いていると、アルバム全体が死の方角に傾いていると思われるかもしれないが、決して『春火燎原』はそのように単純ではない。アルバムの最後を飾る楽曲は、直球のタイトル“生きる”。
いつかみんな息絶える さようならを重ねて- “生きる”
ゆるやかに滅びてく この惑星で生きている
How beautiful life is!
軽やかで明るいボーカルが、滅びを前提に重ねられていく生を心の底から祝福する。ここでまた祝福に戻ってくる。揺れ動き、のたうち回り、生死の間の新しい自己テロルを「生きる」聖者たちのために、春ねむりは全身全霊で祈り、その道行きを祝う。
星になれないわれらは祈られ、祝われている。そして誰かに対して、祈り、祝うことができる。「できる」。できるのだ。
絶望している人たちに、届きますように。彼女ら彼らを傲慢な態度で絶望させている人たちにこそ届きますように。誰しもに届きますように。
海の向こうで独りで戦っていた女性が、それでも日本語で「生きているということ」と何度も言い聞かせ歌う姿――「ということ」のしつこい反復によって事実性を強調する――その音の塊によって、いかがわしい権力がかち割られ、砕け散りますように。破片の一つひとつが血みどろになることで狂気沙汰から目を覚ましますように。つまるところ、それがポップミュージックとしてありますように。
これまでも、春ねむりの試みはボーカル表現としての可能性を果てしなく追求し、同時にポップであることを求めてきたように思う。
1stアルバム『春と修羅』(2018年)の、ノイジーでありながらも見事なまでに流麗なリフや旋律を奏でていたギター。あえて陳腐な形容をするならば、それは弦が歌っていると言ってよいくらいに痛々しくも悦楽的だった。一方でポエトリーラップ~歌は感情の高まりを愚直に反映し、それら伝わる心情の抑揚に合わせるようにギターや楽器もテンポを上げ、激しさを増していた。
ボーカルから発される熱をなぞりながら盛り上がるサウンド、気流変動が生むカタルシス。まずもって「声」に表出する激情に、すべてのサウンドが身を任せるように引きずり回され、流血し、血痕を飛び散らせていく。その鮮やかな無軌道さは、パンクロック / ハードコアがポエトリーラップに憑依する芸そのものだった。
けれども、『春火燎原』は予想を大きく超えるような変化を遂げることになる。感情がボーカルを引っ張りサウンドまでをも引きずり回していくさまは本作においても随所で観察されるが、新機軸としてポストハードコアやポストメタルのビルドアップ手法が導入されたことで、その顔つきはより冷静に、戦略的になった。
近年発表された作品で近いものを強いてあげるならば、アメリカフロリダ州で奇異な音楽性の進化を辿っているUnderØathの『Voyeurist』(2022年)や、ベルギーの地で深化を繰り返しカルト的支持を得ているAmenraによる『De Doorn』(2021年)あたりに接近したと言えばよいか。
同時にボーカル表現も、ポエトリーラップがシャウト化する地点を超え、明確にスクリームが取り入れられている(*1)。これは、見過ごせない変化であろう。
スクリームは、シャウト以上にある程度「スクリームをしよう」という自意識が求められる。爆発する感情の発露としてあくまで歌の延長線上にあるシャウトと異なり、スクリームは声帯から発される時点でスクリームであることを命じられ、発声に向けて準備され、それゆえにクリーンボイス / スクリームといった音の粒が表現する清濁の対比効果にも意識が向けられる。だからこそ、スクリームはある種の定型化と様式化を免れない。
シャウトは自然発生的に生まれるが、スクリームはジャンル性を指向する。ロック史を紐解いても、ポストハードコアやポストメタルの優れた作品がジャンルという城壁に幽閉されぐるぐると同じ場所を彷徨っているゆえんはそこにあるだろう。
しかし、春ねむりは塞がれた壁を果敢に突破していくのだ。
感情の羅列であるポエトリーラップの連続性のうえで、唐突に放り込まれるスクリーム。ポエトリーラップと地続きにあるスクリーム。もっと言うならば、テンプレート化から脱する、たったいま生まれたばかりの表現としてのスクリーム! この冷静さと激情の見事な併走、長尺を走り通す集中力は本作に全編通して鮮烈な生気をみなぎらせると同時に、ジャンルの壁を貫通することに成功している。
つまり、これこそがポップであると称されるべきであり、現代におけるポップミュージック的行為と言えるだろう。
“シスター with Sisters”におけるヘビーなトラップビート、“そうぞうする”の弾力あるハイパーポップ的処理など、縦横無尽に数々のリズムやニュアンスが行き交うなかでもまったく散漫にならず統率力を発揮していることからも、春ねむりの優れた手腕は垣間見える。
ポエトリーラップと歌とスクリームが、やはりひとつの発声表現として地続きになり、楽曲群をボーカルが先導することで引っ張っている。こんなにも重量感のある手の込んだ構成を施しておいて、それでも彼女は圧倒的に「声」の人として多彩な楽曲に言葉を乗せていくのだ。
そして、前作『LOVETHEISM』(2020年)で“Riot”という曲名を世に出した春ねむりは、今作でも“シスター with Sisters”というタイトルで自らが何者であるかを明確に宣言しはじめている。
なぜなら、何の恥じらいもなく妄信的に自らの存在を肯定している世の中のあつかましさのすべてに対して、一刻も早く退場を命ぜなければならないから。その状況を眺めながら、一筋の希望にすがりもう一度起き上がろうとしている人たちを、流血した声で包み込まなければならないから。
ポップミュージックは、社会に存在するさまざまなカテゴライズやゾーニングを軽々と超え、大衆と関係性を築くものだ。
春ねむりの声が、絶望している人たちに届きますように。それだけでなく、彼女ら彼らを傲慢な態度で絶望させている人たちにこそ届きますように。誰しもに届きますように。あらゆる人に届きますように。
