Text by 木津毅
Text by 家中美思
『第76回』初出場が決まったフォークデュオ、ハンバート ハンバート。夫婦で活動し、結成27年目という確かなキャリアを持つかれらの音楽や歌詞は、なぜ人々の心に深く残るのか?
『雪女』や『ろくろ首』『耳なし芳一』など、日本の怪談を記録・翻訳し、世界に広めた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とセツ夫婦をモデルにしたNHKの連続テレビ小説『ばけばけ』。
穏やかなメロディとは対象的に、<毎日難儀なことばかり><日に日に世界が悪くなる><野垂れ死ぬかもしれないね>と、一見「悲観的」な歌詞も印象に残る。
この曲に見られるように、1998年の結成以降、ハンバート ハンバートはこれまでも人々の心に寄り添い、苦しみから目を逸らさずに歌い続けてきた。
かれらが変わらず歌い続ける光と影とは何か? 「満を持して」と言える紅白初出場を前に、楽曲とともに辿っていきたい。
<毎日難儀なことばかり 泣き疲れ 眠るだけ>
<日に日に世界が悪くなる 気のせいか そうじゃない>
これは、NHK連続テレビ小説『ばけばけ』の主題歌であるハンバート ハンバート“笑ったり転んだり”の1番と2番の歌いだしである。
この歌が流れるドラマのオープニングクレジットはショートとロングの2パターンがあり、それぞれ1番と2番が採用されているため、視聴者は必ずどちらかのフレーズを聴くことになる。そのまま受け止めると、悲観的とも感じられる言葉を毎日朝から浴びるわけだ。
しかしながら、『ばけばけ』を観ていくと“笑ったり転んだり”で歌われている情感がドラマの物語と柔らかく共振していることがわかる。
小泉セツと小泉八雲夫妻をモデルとしたトキとヘブンは、どちらも激動の時代のなかで過酷な生い立ちをたどった人物。<毎日難儀なことばかり>だと身をもって知っているのだ。そんなふたりがある種運命的に出会い、やがて<君とふたり歩くだけ>という境地にたどり着く。
写真家・川島小鳥が撮影した写真が流されるオープニングはトキとヘブンのささやかな日常を切り取ったものだが、そこに“笑ったり転んだり”が重なることで、その日常が変わらず永遠に続いていく確証などどこにもないこと、それゆえのかけがえのなさが浮かびあがるのだ。
ドラマが折り返しまで来た現在、あらためて考えてみても、『ばけばけ』の主題歌にハンバート ハンバート以上の選択はなかったと感じられる。佐野遊穂と佐藤良成による夫婦で活動するユニットということもあるが、それ以上にかれらの歌のありかた自体が、セツと八雲が怪談を紡いだ夫婦であったことと分かちがたくつながっているように思えるのだ。
セツと八雲のふたりが世に残した怪談は、そもそもフォークロア(民間伝承)を下敷きにしたものである。日本の民話に強く関心を抱いた八雲がそれらに詳しかったセツに語ってもらい、それを再解釈し綴り直した「再話」と呼ばれるものが現代にも伝わっているのだ。
それは、歴史に名を刻んだ者たちのドラマティックな生き様ではなく、ひと知れずこの世から消えていった「小さき者たち」の悲しみや悔しさについての物語だった。
そして、伝統的にフォーク音楽はそうした名もなき人びとの感情や人生を口承で伝えるものである。ハンバート ハンバートは現代に広く通用するポップスであると同時に、そうしたフォークの精神性を携えた表現を続けてきた。
朝ドラの主題歌起用によって一気に知名度が上がったこのタイミングでリリースされたハンバートハンバート初の公式ベスト盤、その名も『ハンバート入門』は、“笑ったり転んだり”をきっかけにかれらのことを知ったひとに打ってつけの一枚になっている。ライブでよく演奏される楽曲を中心に、最初期の“夜明け”、“メッセージ”から近年発表した“恋の顛末”、“トンネル”までを満遍なくピックアップしているだけでなく、かれらの歌のエッセンスがよく伝わる内容だからだ。一聴すると素朴で優しいフォークミュージックだが、そこには日常や生活に宿る苦さや切なさが滲んでいる。
2025年11月26日にリリースされた、ハンバート ハンバート初の公式ベストアルバム
たとえば、長らくハンバート ハンバートの代表曲であり続けている“おなじ話”。これはふたりが交互に歌い継いでいくスタイルを取ったナンバーで、『ばけばけ』の制作側が対話形式の楽曲を主題歌に依頼するきっかけにもなったものだ。
<どこにいるの? 窓のそばにいるよ
何をしてるの? 何にもしていないよ
そばにおいでよ 今行くから待って
話をしよう いいよ、まず君から>
<それから ぼくも君を見つめ
それから いつもおなじ話>
おそらく親密な関係にいるふたりが、「おなじ話」をしている。ほのぼのとした光景のようだが、そこには「泣き笑い」するような両義的な想いが宿っているようだ。ふたりはどういう状況なのか。「おなじ話」とは何なのか。それらは明かされることはないが、暮らしのなかにある対話の感情的な多面性が立ちあがってくる。
よく聴くとドキリとさせられる言葉づかいは、ハンバート ハンバートの得意とするところだ。たとえば“バビロン”では、人間がおこなう平和的な行為と残虐な行為が並列に語られる。
<手をつなぐ / 殴り合う / 口づける / 唾を吐く / 愛し合う / 殺し合う / 添い遂げる / 焼き尽くす>
ただ考えてみれば、ひととひとの関係というのはそうした両面性をつねに含んでいるものだ。そうした暗い(とも取れる)描写を含んだハンバート ハンバートの歌詞について「毒がある」とする見方もあるが、わたしはむしろ実直さの表れではないかと思う。
ある関係の、生活の、感情の、そして人間の醜い面を見つめなければ、美しい面が本当に見えてくることはない。そうした現実に誠実に向き合っているのだ。
あるいは、言いようのない疎外感もハンバート ハンバートの歌にしばしば現れるフィーリングだ。
<騙すときにだけ使うなよ / わからないくせに使うなよ / テメーの都合で使うなよ>。
それは、この世のなかで暗黙の了解とされていることに馴染めない者が密かに抱える鬱屈でもある。かれらの歌はそうした、けっして注目されることのない人間が抱えるものにも光を当てる。
楽曲にインスピレーションを受けた奥山大史が同名の映画を制作することになった“ぼくのお日さま”も、まさにそんな一曲と言える。
<こみあげる気持ちで ぼくの胸はもうつぶれそう
きらいなときはノーと 好きなら好きと言えたら>
吃音のある少年の文字通り「言葉にならない」想いが歌となって解放される。
<歌ならいつだって / こんなに簡単に言えるけど>――彼はもちろん、<世の中歌のような / 夢のようなとこじゃない>と理解している。しかし、少なくともこの歌のなかでは、彼はどこまでも自分を表現することができる。行き場のなかった想いはそして、映画『ぼくのお日さま』において、ある少年の初恋の物語として昇華されることにもなった。
疎外感を抱えた者同士がふとしたときに出会い、ともに生きていく決断をする。ハンバート ハンバートの歌には、そんな瞬間もまた封じこめられている。それはあくまで世界の片隅で起きていることで、取るに足らないことなのかもしれない。
『ハンバート入門』の最後の曲となる“トンネル”では、<行くも戻るもない道を / 戸惑いながら歩いている>と歌われる。もちろん、未来が明るいなんて確証はどこにもないし、他者とともに生きていくことにも困難はたくさんある。そうした認識が歌の底につねに流れていて、30年近いかれらのキャリアにおいて、その芯はブレることがないと言えるだろう。
だからこそかれらの歌は、安易な「癒し」が通用しないほど殺伐とした現代に寄り添うものになったのだろう。いや、もしかすると、『ばけばけ』が激動の明治時代を舞台にしながら、そこで疎外感を覚える人びとを描いていることからもわかるように、かれらが歌っていることはいつの世でも人間が求めているものなのかもしれない。
それがフォークロアとして、物語として、音楽として連綿と伝えられてきた。不安や悲しみを抱えたままで生きていくしかない名もなき人びとの心の揺れを、ハンバート ハンバートの歌は掬いあげ続けるのだ。


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