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Text by ISO
Text by 今川彩香



落下。その経験がなくとも、落ちる恐怖を人間は知っている。

なぜだろうか。身体だけが覚えている不思議な記憶があり、それが一体何なのか探ることからはじまった——映画『落下音』のマーシャ・シリンスキ監督はそう語りはじめた。



『第78回カンヌ国際映画祭』コンペティション部門で審査員賞を受賞し、『第98回アカデミー賞』ドイツ代表選出という評価を得た本作。ある農場を起点として、20世紀ドイツの4つの時代を、4人の少女の視点から断片的に横断していく。それは、歴史の周縁に置かれたために言葉や記録として残されていない、女性たちの悲しみや苦しみの記憶でもある。



「この映画が扱うのは『記憶』そのもの」と、シリンスキ監督は言う。本作は、直接的な暴力描写やその説明もないまま、ある種の夢のような映像が続く。そのなかで、登場人物の視線、そして私たち観客の視線をも、強く意識させる構造になっている。



「女性たちが死ぬまで抱えていた、誰にも明かすことのなかった小さな物語を再現するために、第三者の視点で描くことを選んだ」——映画のなかに複雑に組み込まれた「視線」の意味とは? 時代や個人を超えて共有される「記憶」を探って、一体何を伝えたかったのか? 監督へのインタビューを通して、物語を紐解いていく。



映画『落下音』監督に聞く、女性たちを第三者視点でとらえた理由。見る、見られることの「暴力」を考える

©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral



—本作のテーマは、世代を超えた女性へのトラウマや暴力、そしてそれにどう対処してきたかが核だと思います。ただそれを歴史的に再現するというより、女性たちの感覚や不安に焦点を当て、だからこそ時代を自由に行き交う構成になっていると感じました。そういった感覚にどのように関心を持ち、この映画に展開させたのでしょうか?



マーシャ・シリンスキ(以下、シリンスキ):私と共同脚本家のルイーズ・ピーターにとって出発点となったのは、「理由がはっきりしないのに湧き上がる不安や恐れはどこから来るのか?」という問いでした。



唐突に現れる感情なのに、自分の人生や経験を振り返っても説明できない。それは世代を超えて継承されてきたものではないかと考えた私たちは、世代間トラウマに関するいろんな事例を集め始めたんです。するとそこには出どころのわからない記憶やイメージが、複数の世代で現れているという驚くべき話が数多くありました。



また、同じように、人が「特定の状況や物事に惹かれたり、避けたくなったりする」という心の動きについても、自分の経験からは説明できないことがある。それも自分の人生を超えた、もっと古い時代から継承したものではないかと考えるようになりました。



映画『落下音』監督に聞く、女性たちを第三者視点でとらえた理由。見る、見られることの「暴力」を考える

マーシャ・シリンスキ

ベルリン生まれの監督・脚本家。ハンブルク映画学校の脚本マスタークラス修了後、脚本家として活動を開始。その後、バーデン=ヴュルテンベルク映画大学で映画監督を学んだ。2年次に、中編『DIE KATZE(THE CAT)』で受賞。3年次に監督した長編『DIE TOCHTER(DARK BLUE GIRL)』は2017年の『ベルリン国際映画祭』でプレミア上映され、GWFF新人賞のノミネートのほか、世界の40以上の映画祭で上映され、いくつかの国際的な賞も受賞した。2023年、共同脚本家ルイーズ・ピーターと執筆した『落下音』の脚本でトーマス・シュトリットマッター賞を受賞。『落下音』は2025年の『第78回カンヌ国際映画祭』コンペティション部門に選出され、審査員賞を受賞。

『第98回アカデミー賞』ドイツ代表選出を果たす。



シリンスキ:そこで私たちが注目したのは、人間が抱く「自分の身体に裏切られる」という感覚でした。まるで自分自身よりも、身体のほうが多くのことを知っているかのような状態です。



たとえば劇中の1980年代パートで、アンゲリカが「恥ずかしいと人は赤くなり、顔に出るから皆にバレる」とモノローグで語りますよね。つまり身体とは、私たちの意思よりもずっと他者に対して正直に情報を伝えてしまうもの。それは危険だからすべきでないと教えられてきたはずなのに、身体はそれを裏切ってしまうのです。そういう感覚に関心を持ち、この映画をつくりたいと考えました。



映画『落下音』監督に聞く、女性たちを第三者視点でとらえた理由。見る、見られることの「暴力」を考える

アンゲリカ ©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral



——その感覚を描きたいと考えた時点で、女性視点の作品にしようと決めたのでしょうか?



シリンスキ:いえ。当初、女性視点の映画にしようと考えて動きはじめたわけではありませんでした。そうではなく、とある場所に生きていたすべての人々についての映画をつくろうとしていました。そしてその視線——彼女 / 彼らが現実では見ることのできないその時代の前後も含め——を取り上げようと考えていたんです。



しかしリサーチを重ねるなかで、私たちが関心を抱くような「語られない物語」——死ぬ間際でも語られないような恥を伴う秘密——は、主に女性たちのものであると気付きました。

そして、女性たちの物語はつねに歴史の周縁に置かれ、決して中心に据えられることはなかった。だからこそ、本作は彼女たちの物語を描こうと考えたのです。



さらに私たちは自分自身の内なる声にも耳を傾け、リサーチで得た情報と自分たちのなかにあるものを接続していきました。そうして「継承されていく集団的な記憶とは、一体どんなものなのだろうか?」と考えながら、脚本を書き進めていったんです。



映画『落下音』監督に聞く、女性たちを第三者視点でとらえた理由。見る、見られることの「暴力」を考える

ヤラ ©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral



—劇中では性や生殖の権利、つまりリプロダクティブ・ヘルス / ライツの搾取があらゆるかたちで描かれます。1910年代パートで、農夫たちの都合によって避妊手術を受けさせられたメイドやリヤの悲痛な眼差しは忘れ難いものがありますが、それを当事者ではなく第三者であり、すべてを理解していない少女アルマの目線からとらえたのはなぜでしょうか?



シリンスキ:この映画が扱うのは「記憶」そのものです。記憶と想像力がどのように絡み合い、アイデンティティの形成につながるかを描いている。ただし記憶というのは、当てにならない不確かなものです。実際には起きていない出来事のイメージを記憶だと思い込み、それがアイデンティティをかたちづくることもある。記憶とは、予測不可能で、連想的で、断片的で、不安定なもの。そんな記憶の性質を映画に取り入れたいと考えたときに、子どもの視点が最も適していると考えたんです。



少女アルマは、まるで探偵のように世界や出来事を観察しますよね。

彼女は何の説明もなくその世界に放り込まれ、そこのルールを理解しようとする存在なんです。周囲は「とにかくついてきて同じようにすればいい」と言うばかりで、誰も説明してくれない。でも子どもには、皆が隠そうとしているものを感じ取る不思議な能力があります。それを説明する言葉を持たずとも、見えない何かを見事にとらえて、感じるんです。



映画『落下音』監督に聞く、女性たちを第三者視点でとらえた理由。見る、見られることの「暴力」を考える

アルマ ©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral



シリンスキ:またリサーチの過程で、搾取された女性自身が言葉で残した記録はほとんど見つかりませんでした。なぜなら、特に農場の女中のような下層階級のメイドたちは、読み書きができなかったから。自分たちの体験を書き残すことができなかったのです。



それでも、数は少ないながら見つけた女性視点の本には、日常の些細な様子——洗濯物のことや鶏の世話についてなど——が取りとめもなく、淡々と記されていました。それはまるで失われた子ども時代の楽園を綴るような描写ばかり。けれどその合間に、ともすれば見落としてしまいそうな短い文章が紛れ込んでいるんです。たとえば「メイドたちは、男性にとって『危険ではない状態』になる必要がある」や「私は無駄に人生を生きてしまった」というような。



私たちはそういった断片的な記述から、実際に何があったのかを想像し、さらに追求していきました。

ですがリサーチには限界があり、具体的な出来事を証明することはできませんでした。私たちにできるのは推測だけ。それでも、その女性たちが死ぬまで抱えていた、誰にも明かすことのなかった小さな物語を再現するために、私たちは第三者の視点で描くことを選んだのです。それは、出来事を思い出そうとするけれど、完全には理解していない憶測も含んだ視点だからです。



映画『落下音』監督に聞く、女性たちを第三者視点でとらえた理由。見る、見られることの「暴力」を考える

©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral



それは自分自身にも当てはまることで、もしかすると私たちも抑圧される当事者になっていたり、加害者になっていたり、生き延びるために傍観者になった瞬間があったかもしれない。だけどトラウマとして意識的に封じているから、そういった記憶と向き合うことはない。その可能性は誰にも否めません。



それでも、ときに何かがトリガーとなって突然トラウマが呼び起こされることがあります。「そんなはずはない」と思って懸命に意識の外に追い出そうとしても、あらゆる断片——音や言葉、映像のようなもの——がトラウマとして現れる。私たちはその『断片性』そのものを映画に取り入れようと試みたのです。



—本作では直接的な暴力はほとんど描かれない反面、とりわけ1970年代パートのアンゲリカにおいて「眼差しの暴力」が描かれます。それは映画において長らく根付いてきた「男性の眼差し(メイル・ゲイズ)」(※)とも共鳴する。

そんななかで本作は「人が何かを覗き見る視点」や「幽霊のような視点から俯瞰的に眺める視点」が意識的に用いられていますが、ときに暴力性を伴うカメラを、監督はどのような意識のもと女性たちに向けたのでしょうか。



シリンスキ:この映画におけるカメラは、時間や空間を超えて、農場に漂う幽霊のような存在です。祖先から現在に至るまで、映し出される人々のイメージの流れをつないでいく、いわばもう一人の隠れた主人公のようなもの。



あなたの言うとおり、ときに視線は強い暴力性を伴うことがあります。実際に暴力的な出来事が起きなくても、受け手によっては暴力的な意味を持ち、トラウマにもなり得る。そしてその経験がその後の人生——たとえば街をどう歩くか、どのような意識を持つか——を決定付けてしまう可能性があります。私たちは視線が登場人物にどのような反応を引き起こすのか、その感覚をカメラで捉えようとしました。



映画『落下音』監督に聞く、女性たちを第三者視点でとらえた理由。見る、見られることの「暴力」を考える

アンゲリカ ©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral



シリンスキ:ただし、この映画はその視線を評価しません。その視線が良いか悪いかを判断するのではなく、ただそこに存在すると示すだけ。視線は人間を構成する要素の一部でもあります。私たちは見られる存在であると同時に、何かを見る存在でもある。



この映画におけるカメラもまた、「見る」という行為をただ提示しています。言葉では「何がそんなにひどかったのか」「なぜ当事者にとって問題だったのか」を説明できない瞬間があります。だから「見る」ことをとおして、その雰囲気や空気感を捉えることが、本作におけるカメラの役割でした。



映画『落下音』監督に聞く、女性たちを第三者視点でとらえた理由。見る、見られることの「暴力」を考える

©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral



—カメラが人々を見ると同時に、劇中では少女たちがカメラを見返す姿が幾度か繰り返されます。監督は以前のインタビューで「100年のあいだ、一方的に『見られる』存在であり続けてきた女性たちに『見返す』機会を与えたかった」と述べていますが、それは劇中でアンゲリカが語る「他者が私を見る姿を私も見ていた」という言葉の実践でもあると感じましたが、この実際には存在しない視点を「見返す」行為には監督のどのような感覚が込められているのでしょうか?



シリンスキ:登場人物から視線を向けられた瞬間に何を感じるかは、観客それぞれが決めるべきことだと思います。私たちにとって重要だったのは、人間が想像力という素晴らしい能力を持っているということ。それは記憶とも深く結びついています。私たちは自分の身体に囚われていて、自分の目を通じてこの世界を見ています。



たとえばいま、私はあなたの顔を自分の目で見ていますが、明日このインタビューを思い出すとき、私は「あなたを見ている自分」を外から見ているようなイメージを思い浮かべるかもしれません。しかしそれは、実際にはあり得ない視点です。



つまり私たちの記憶のなかには、実際には存在しなかったイメージが含まれている。服装すら正確に思い出せないかもしれない。それでもそのイメージを「記憶」だと認識しているのです。そういう意味で、記憶は信頼できないものだと考えています。ただし唯一残るものがあります。それは「感情」。誰かと会ったときに何を感じたか、ある場所でどんな感情を抱いたか——それだけは残り続ける。



映画『落下音』監督に聞く、女性たちを第三者視点でとらえた理由。見る、見られることの「暴力」を考える

©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral



シリンスキ:この映画は、登場人物たちが同時に記憶しているようであり、同時に夢を見ているようでもあります。そしてひとつの記憶が、連想的に別の人物の記憶を呼び起こしていく。それは、私が子どもの頃からずっと感じていて、とらえたいと思っていた感覚でした。



私はベルリンの戦前に建てられた古い建物で育ち、いまも住んでいるんですが、いつもこんなことを想像していました——「いままさに自分が座っているこの場所に、以前は誰が座っていのだろう?」「その人は何を考え、何を感じていたのだろう?」。そしてその思考や感情が、自分にも受け継がれているのではないか、と。その感覚を、この映画のなかで扱っているのです。

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