『ガンダム ジークアクス』批評。描かれなかったマチュやニャア...の画像はこちら >>



Text by 島貫泰介
Text by 生田綾



庵野秀明率いるスタジオカラーと、『ガンダム』シリーズを制作してきたサンライズによって制作された鶴巻和哉監督のガンダムシリーズ最新作、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』(以下、『ジークアクス』)が最終回を迎えた。



同シリーズの原点である1979年放送『機動戦士ガンダム』(いわゆるファーストガンダム)のパラレルワールドを描いた意欲作で、ファーストガンダムから登場するシャア、ララァといった人気キャラが物語において重要な役割を果たし、ガンダムファンをはじめ多くのアニメファンを驚きと興奮の渦に巻き込んだ本作。



我々はいったい、何を見たのだろうか――。本作で描かれたもの、そして描かれなかったこととは? 美術ライターの島貫泰介によるレビューをお届けする。



ねえねえ、『ジークアクス』の最終話見た?  話が駆け足すぎだったね……でも、12話たっぷり堪能させていただきました。「ガンダム」という物語(それはほとんど歴史だ)としても商品としても巨大化しすぎた人気シリーズを前提とした、あまり類を見ない作品受容のスタイルが楽しかったです、はい。強いて似たものを挙げるなら、四半世紀をかけてマルチバース的世界での輪廻=やり直しを描いた『エヴァンゲリオン』か。とすると、これはやっぱり師匠の庵野秀明に対する鶴巻和哉のアンサーとして見るべき? うーん。



……といったことを放送が終わってすぐに書き始めたものの、思いのほか視聴者の未練を残さない決着だったとも感じている。



これまでのエピソードのように考察できる余地はたっぷりあるし、アルテイシア新政権下(宰相はランバ・ラル?)でのシャアとシャリア・ブルの来し方行く末を二次創作的に想像するのも楽しかろう(※)。



だが、毎回気前よく投入されては退場していく魅力的な新モビルスーツや新キャラクター同様に、本来なら物語の中心にあるはずだったマチュ、ニャアン、シュウジの関係性が、ララァ、シャア、アムロの後景に留まって終わったいま、筆者の『ジークアクス』世界への熱は急速に冷めつつある。



これが12話構成の1クールではなく、倍の2クールで物語の推移やキャラクターの心理をじっくり描けていれば、もう少し気持ちは違っただろうか?



「類を見ない作品受容」と冒頭で書いたが、あらためて全12話を振り返ってみると『ジークアクス』は特異な作品だった。カノン=正典としてのファーストガンダム(一年戦争)とそれに続くZガンダム(グリプス戦役)の物語がまずあって、その創造的読み替えがドラマを駆動する燃料として毎話焚べられていく。



そのディテールは、30分に満たない放送時間では十全に語られないが、SNS上のガンダムガチ勢が「○○はこれ、▲▲はそれ」と補足することで、視聴者は納得を得る。

いまは配信全盛の時代だから、過去のガンダムシリーズに触れることも容易だ。



つまり、作品が依って立つドラマの核は作品の外部にあり、膨大にアーカイブ化されたガンダムの歴史 / 文脈は、視聴者全員が共有しておいて当たり前の「教養」となる。そして文脈のリゾーム(根茎)の末端に無数の「考察」が発芽して、SNSがわっと盛り上がる。



ところで、このようなネットワーク化された作品受容は、美術ライター/編集者である筆者が親しんできたアートワールドと重なって見える。



今年1月、41歳の若さで急逝したキュレーターの山峰潤也は、金沢21世紀美術館の機関誌『アール issue』の特集「アーカイブ」において、論考「アーカイブ的芸術:混沌とした時代の作法」を寄稿している。



同じ特集に訳出されているハル・フォスターによる論考「アーカイブ的衝動」に触れつつ、山峰はインターネット登場以降に次第に発達していったアーカイブ(過去の記録やデータ)と、アーカイブを志向するトレンドが、今日の(現代美術の)作品に与える影響の大きさを紹介する。



例えば、事物の「分類」を自身の創作スタイルとして提示するマーク・ダイオンによる展覧会「MICROCOSMOGRAPHIA マーク・ダイオンの『驚異の部屋』」、マルコ・ポーロが収集したアジアに関する膨大な調査資料を映像に収めることで、西洋文明の植民地主義的欲望を可視化するフィオナ・タンの作品『ディスオリエント』、無数の映画に登場する時計の映像をつなぎ合わせて24時間の「映像時計」をつくるクリスチャン・マークレーの『The Clock』など。どれも、情報化社会のなかで可視化されうる歴史や政治的風景を批評した、2000年代を代表する作品である。



それらをふまえ、山峰は「『アーカイブ』らしい表現には、資料の集合としてある一定の『量』を伴うことが必要不可欠だと言えるだろう。程度は異なれど『量』を伴うことで初めて集合としての体裁が整い、アーカイブ然としてくる」と指摘し、日本でもよく知られるクリスチャン・ボルタンスキー(※)の作品群を象徴的に挙げるのだが、しかしこのように言葉を続ける。



ナチスドイツによるユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)を主要なテーマの一つとしてきたボルタンスキーにとって、個別の苦しみをユダヤ人全体で共有されるべき苦しみとして集積し、抽象化 / 事大化することはもはや作家的使命であり、それは第二次世界大戦後の欧州世界が求める身振りでもあった。



もちろん今日の混迷するパレスチナ、イスラエル、アメリカ、さらにはイランも巻き込んだ政治的状況を考慮すれば、この「正しさ」には批判的視座が持たれるべきだが、少なくともボルタンスキーが精力的に活躍した20世紀後半の西側主要国が共有する「空気」を、彼の作品は体現していたと言えるだろう。



それと比べると、先に述べたマーク・ダイオンらの作品は、個別の固有性や歴史や政治の分裂性を意識する傾向を持ち、よりポストモダン的と言えそうだ。そして、その身振りは今回の『ジークアクス』にも、ある程度共通するのではないかと思う。しかし、あくまで、ある程度、だ。



『ジークアクス』は、「ガンダム史」とも呼ぶべき膨大な設定のアーカイブにアクセスし、その諸要素を遊戯的に組み替えて物語を駆動させてきた。また、それと並行して、戦争を知らない少女(マチュ)と、戦争に人生を翻弄された少女(ニャアン)の相違を描き、さらに加えて、異なる次元の歴史を知りすぎたことで脱歴史的な思考へ至った少年(シュウジ)を、ガンダム史の媒介者として登場させ、より新しい物語を描こうとした。



このように整理し直してみると、分裂的志向を持つ『ジークアクス』の野心は、けっこういい感じだったようにも思えてくる。後先考えないマチュのアナーキーな行動も、直線的に進んでいく歴史に対する、天然な批判として別の輝きを宿しえたかもしれない。劇場版上映時から野蛮なマチュのイラストがネットミーム化されていたが、最終話の巨大ガンダム首刈りは面目躍如だったろう。



しかし結局のところ、『ジークアクス』の快楽はアーカイブ化されたガンダム史の権威を前提とする戯れに終始して、主役である3人、とくにマチュとニャアンについて物語ることを怠って終わったというほかない。



劇場版公開時に書いたレビューで、筆者はイズマ・コロニーに実際の香港のイメージを重ね合わせたが(Zガンダムで香港を急襲したサイコガンダムものちに登場して、あながち的外れな予感ではなかったと思ったものだが)、戦争を通して故郷と歴史を喪失したマチュとニャアンを通して描けることはもっとたくさんあったはずだ。



歴史のアーカイブを特定のイデオロギーに奉仕させるボルタンスキー、あるいは創造主としての富野由悠季を権威化してガンプラビジネスを拡大させるガンダム史が示す歴史の「正しさ」だけでは、もはや世界や時代や人の心は表象できない。



「エンタメにそこまで求めんでも」という声も聞こえてきそうだが、最終話の多弁すぎるモノローグの端々に、全12話では描ききれなかった主題への作り手の未練が見え隠れしている以上、それをなかったことにはできない。

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