●最後の再審請求人が94歳に…「残された時間の重さ」
1961年、村の懇親会で振る舞われたぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡した「名張毒ぶどう酒事件」。犯人と目された奥西勝さん(当時35)は一審判決で無罪を勝ち取ったが、二審では一転して死刑判決に。
この事件を46年にわたり取材してきた東海テレビのドキュメンタリー映画『いもうとの時間』(1月4日から東京・ポレポレ東中野、ヒューマントラストシネマ有楽町で公開)。プロデューサーの阿武野勝彦氏は、同局を退職するにあたっての最後の題材に、この事件を選んだ。
そこにはどんな思いが込められているのか。また、今回の主人公である“いもうと”が戦い続ける原動力とは。昨今「オールドメディアがSNSに負けた」と言われる中で改めて実感した継続して取材・報道を続けることの意味なども含め、阿武野氏に話を聞いた――。
○「袴田事件」や『虎に翼』がきっかけに
24年1月末で東海テレビを退職した阿武野氏。名張毒ぶどう酒事件のドキュメンタリーは、自身の仕事の中で「背骨」と位置づけていることもあり、在職中最後のプロデュース作品として、同年2月10日に東海ローカルで放送された『いもうとの時間 名張毒ぶどう酒事件・裁判の記録』を手がけた。主要スタッフの鎌田麗香監督と奥田繁編集マンが、藤井聡太棋士の取材に追われていたため、完成したのは阿武野氏が退職する1月31日の夜というギリギリのタイミングだった。
そこから追加取材・再編集した今回の劇場版『いもうとの時間』を製作することになったきっかけの一つは、1966年に発生した通称「袴田事件」の再審判決が出ること(9月26日に無罪判決)。そして、日本史上初めて法曹の世界に飛び込んだ女性を主人公に描かれたNHK連続テレビ小説『虎に翼』が反響を呼んでいたことも大きかった。
「裁判官や司法の世界が芳醇に描かれたドラマが放送されたことで、身近に感じたり、歴史的な流れを捉え直す人も多いと思ったので、そんな皆さんに“名張毒ぶどう酒事件というものをどういうふうに見ますか?”と問いかける意味で、今こそ公開する意味があるタイミングだと思いました」(阿武野氏、以下同)
○妹がはっきりと言った「ちょっとの間も忘れたことない」
東海テレビでは、名張毒ぶどう酒事件を題材にしたドキュメンタリーを8本制作し、劇場映画はこれで4作目。
「岡美代子さんはもう94歳なので、もしこのまま亡くなってしまったら再審を請求できる人はいなくなってしまう。時間との戦いになってきている中で、速やかに再審を開始してほしいという意味を込めて、46年にわたる東海テレビ『名張毒ぶどう酒事件』シリーズの“最終章”としました。この後は、再審無罪という司法の新たな物語の幕開けにしてほしいと思っています」
その上で、「“家族がこういう目に遭ったら、あなたはどうしますか? 今、私たちはこういう危うい司法環境に置かれているんです”ということを描き込みたかった」「“死刑囚・奥西勝”という括弧でくくられた存在になっていたところを、家族など周りの人たちとの関わりの中で奥西さんのパーソナリティを描き出していきたい」という狙いもあった。
63年にわたり兄の無罪を信じ、再審請求を引き継いだ美代子さん。その原動力を、「やはり家族への思いだと思います。特に無罪を信じ続けたお母さんの思いを受け取って、兄が亡くなった後も自分の命ある限り世に問うんだという気持ちを、心の奥深くに持っているのだと思います」と捉えている。
その思いを象徴するのが、今回の映画で美代子さんが主治医と事件について会話するシーンだ。
「美代子さんの主治医が、こう語りかけます。最初に現場に駆けつけた医師が自分の父で、叔母も事件に巻き込まれて3日間失神していた、と。主治医は“昔のことはあまり思い出さんほうがええか”と言うんですが、美代子さんは事件のことを“ちょっとの間も忘れたことない”とはっきり言うんです。美代子さんの日々の暮らしに、事件がくさびのように打ち込まれていて抜けることがなかったんだと思いました。
阿武野氏いわく「当時、司法とメディアの関係は、神聖な判決に疑義を申し立てるような報道がはばかれるという雰囲気だったのではないか」という中で、報道部の所属でもない門脇氏は、“どんな部署にいようとテレビ局員は皆、ジャーナリストであるべき”という考えの持ち主で、休日に自費で取材を続けていたという。
その後、報道部が番組化を決めて組織的に関わることになり、門脇氏をディレクターに立て、87年6月29日に『証言~調査報道・名張毒ぶどう酒事件』というドキュメンタリーを放送。その後、再び組織は取材から遠のくが、門脇氏の活動は続いた。
そして、2005年に再審の開始決定が出る。この時、ドキュメンタリーの責任者になっていた阿武野氏が、門脇氏に「今度は途中で投げ出したりせず、最後までやります」と協力を求め、齊藤潤一氏(現・関西大学教授)が2代目ディレクターとなって、06年3月19日に『重い扉~名張毒ぶどう酒事件の45年~』を放送した。
以降、継続的に取材を続け、14年に鎌田氏が3代目のディレクターとなり、現在に至る。阿武野氏は「2005年から、齊藤潤一と鎌田麗香という2人のディレクターが視点を変えながら多角的に取材を展開したので、それらの成果を盛り込んだことで今回の作品の膨らみになっていると思います」と解説する。
映画にも映し出されている当時の映像は、事件現場にカメラが入り、布団がかけられた犠牲者の姿などが衝撃的だ。「東海テレビが開局してまだ3年しか経っていないので、カメラマンは映画界の出身者でしっかりしていたが、記者は新聞記者の見よう見まねだったそうです。テレビの報道はこうあるべきというのがまだ曖昧な頃の映像なんです」という。
フィルムで撮影していたため、上書きされることなく残っていた当時の映像には、裁判官の現場検証や法廷の様子なども残されており、これが引き継がれてきたことは、「組織メディアの強みだと思います」と強調する阿武野氏。改めて、組織的に継続することの重要性を感じたという。
「この事件を追い続けることで、スタッフの足腰が強くなったと思います。ニュースは瞬発力が必要ですが、瞬発力を支えるのは取材経験です。奥西さんが獄中で亡くなった時に、私たちはとてもショックを受けました。当時、特番を作ったんですが、樹木希林さん(※映画『約束~名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯~』に出演)が“奥西さんの死は無駄ではなかった。長く生きたことによって、若い弁護士たちを育てた”とコメントをくれました。それと同じように私たちスタッフもこの事件に鍛えられたんだと思いました」
冒頭で、阿武野氏は名張毒ぶどう酒事件の仕事を「背骨」と表現していたが、「この事件を追いかけることで、裁判所の中にカメラを入れた『裁判長のお弁当』や、検察庁の内部を写し撮った『検事のふろしき』というこれまでに例のない“司法シリーズ”のドキュメンタリーが生まれていったんです。やはり、しっかりした“背骨”がないと派生していかないので、そういう意味で、私たちのドキュメンタリーの母として、名張毒ぶどう酒事件が支えてくれたという感じがします」と再確認。
「こういう形で作り続けていたことで、私のテレビマン人生も空虚なものにならなかった。名張毒ぶどう酒事件に関われたのは、幸せなことだったと思います」と感慨を述べた。
昨今、テレビを含むマスメディアが「オールドメディア」とくくられ、兵庫県知事選の結果などを受けて「オールドメディアがSNSに負けた」と語られる風潮がある。そんな状況を打破するためにも、「背骨」と意識できるような仕事に取り組むことが必要だと訴える。
「テレビ・新聞は、記者の足腰をもっともっと鍛えて、瞬発力と持続力の両方を持ち合わせるようにならないといけません。
阿武野氏は「もう一度ファイトしてもらいたいと思って、応援する意味も込めて作ったんですよ」と伝えたそうだが、「やはり長年にわたって道を閉ざされ続けると、“またこれも徒労に終わらせられた”という気持ちになってもおかしくないですよね。(1月29日に第10次再審請求の特別抗告が棄却されたばかりで)ちょっと感傷的なタイミングだったのかもしれないです」と理解する。
だが、昨年9月に袴田巌さんの再審無罪が決定し、10月には1986年に福井県で起きた中学生殺害事件で服役した前川彰司さんの再審が決まった。12月には紀州のドン・ファン死亡事件で元妻に無罪判決が出され、実は名張毒ぶどう酒事件でも第10次再審請求で初めて、裁判官の1人が再審を開始すべきとする意見を述べている。
この流れに、「“疑わしきは罰せず”という裁判の原則の方向へ振り始めている感じがします」と、希望を抱く阿武野氏。今回の映画には、「裁判官は憲法以外に拘束されるものはないはずなんです。若かろうがベテランだろうが、裁判官は一人ひとりが独立していて、やる気さえあれば、組織のしがらみからも自由、先輩たちの判決も間違いは間違いと言えることを再確認したいんです」と思いを込めている。
さらに、「一審の時は、裁判官が事件現場に足を運んで検証もしているのですが、今の裁判官は忙しすぎるのか、現場検証をすることがほとんどありません。
○戦後80年にメディアがどういうメッセージを出せるか
東海テレビを退職する2年前に、名古屋から岐阜県東白川村に移住した阿武野氏。「夏は、毎日4時間くらい草刈りをしていました。汗だくですが、ゆっくり時間が流れているような気がします。村の人が訪ねてきてくれていろいろ話して、あくせくしていないのがいいですね。ドキュメンタリーで出会った大病院の院長が村の医療にアドバイザーとして手を貸してくれたり、自分が持っている人のつながりも村に使ってもらえればと思っています」と、充実の村人生活を送っているようだ。
東白川村は、戦後50年の年に、村の古老が各戸を回り戦争遺品を集めて平和祈念館を開館させていくその課程を追いながら、村と戦争の関わりを描いたドキュメンタリー『村と戦争』(95年)の舞台だ。阿武野氏は最近、自身が手がけたこの作品の上映会を、戦後80年に向けて村で3回開いた。200人を超える村人が参加したが、「“30年前と今で、どちらが戦争に近いと感じますか?”と尋ねたら、全員が今のほうが戦争が近いと答えたんです。それはウクライナやガザの問題だけじゃなくて、日本が戦争に傾いていくという危機感だったんです」ショックを隠せなかったという。
それを踏まえ、「2025年は戦後80年なので、ここでメディアがどういうメッセージを出せるか。
翻って古巣への思いを聞くと、「現場は一生懸命にやっていると思いますが、今いるスタッフたちが気持ちよく作れる環境を、組織がどう守れるかでしょうね。制作者に対するリスペクトに欠けると、素晴らしい表現は影を潜めますから。新規事業もいいですけど、テレビ局にとって一番大事なのは番組だという原点に戻って、たゆまぬ努力で道を切り開いてほしいと思います」と期待を示した。
●阿武野勝彦1959年生まれ。静岡県出身。同志社大学文学部卒業後、81年東海テレビ放送に入社。アナウンサーを経てドキュメンタリー制作。ディレクター作品に『村と戦争』(95年・放送文化基金賞)、『約束~日本一のダムが奪うもの~』(07年・地方の時代映像祭グランプリ)など。プロデュース作品に『とうちゃんはエジソン』(03年・ギャラクシー大賞)、『裁判長のお弁当』(07年・同大賞)、『光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~』(08年・日本民間放送連盟賞最優秀賞)など。劇場公開作は『青空どろぼう』(10年)、『長良川ド根性』(12年)で共同監督。『平成ジレンマ』(10年)、『死刑弁護人』(12年)、『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(12年)、『ホームレス理事長 退学球児再生計画』(13年)、『神宮希林』(14年)、『ヤクザと憲法』(15年)、『人生フルーツ』(16年)、『眠る村』(18年)、『さよならテレビ』(19年)、『おかえり ただいま』(20年)、『チョコレートな人々』(23年)、『その鼓動に耳をあてよ』(24年)、『いもうとの時間』(25年)でプロデューサー。個人賞に日本記者クラブ賞(09年)、芸術選奨文部科学大臣賞(12年)、放送文化基金賞(16年)など、「東海テレビドキュメンタリー劇場」として菊池寛賞(18年)。著書に『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』(21年)。24年1月末で東海テレビを退職。「オフィス むらびと」代表。
1961年、村の懇親会で振る舞われたぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡した「名張毒ぶどう酒事件」。犯人と目された奥西勝さん(当時35)は一審判決で無罪を勝ち取ったが、二審では一転して死刑判決に。
以降、無実を訴え続けるも、2015年に89歳で獄中死した。
この事件を46年にわたり取材してきた東海テレビのドキュメンタリー映画『いもうとの時間』(1月4日から東京・ポレポレ東中野、ヒューマントラストシネマ有楽町で公開)。プロデューサーの阿武野勝彦氏は、同局を退職するにあたっての最後の題材に、この事件を選んだ。
そこにはどんな思いが込められているのか。また、今回の主人公である“いもうと”が戦い続ける原動力とは。昨今「オールドメディアがSNSに負けた」と言われる中で改めて実感した継続して取材・報道を続けることの意味なども含め、阿武野氏に話を聞いた――。
○「袴田事件」や『虎に翼』がきっかけに
24年1月末で東海テレビを退職した阿武野氏。名張毒ぶどう酒事件のドキュメンタリーは、自身の仕事の中で「背骨」と位置づけていることもあり、在職中最後のプロデュース作品として、同年2月10日に東海ローカルで放送された『いもうとの時間 名張毒ぶどう酒事件・裁判の記録』を手がけた。主要スタッフの鎌田麗香監督と奥田繁編集マンが、藤井聡太棋士の取材に追われていたため、完成したのは阿武野氏が退職する1月31日の夜というギリギリのタイミングだった。
そこから追加取材・再編集した今回の劇場版『いもうとの時間』を製作することになったきっかけの一つは、1966年に発生した通称「袴田事件」の再審判決が出ること(9月26日に無罪判決)。そして、日本史上初めて法曹の世界に飛び込んだ女性を主人公に描かれたNHK連続テレビ小説『虎に翼』が反響を呼んでいたことも大きかった。
「裁判官や司法の世界が芳醇に描かれたドラマが放送されたことで、身近に感じたり、歴史的な流れを捉え直す人も多いと思ったので、そんな皆さんに“名張毒ぶどう酒事件というものをどういうふうに見ますか?”と問いかける意味で、今こそ公開する意味があるタイミングだと思いました」(阿武野氏、以下同)
○妹がはっきりと言った「ちょっとの間も忘れたことない」
東海テレビでは、名張毒ぶどう酒事件を題材にしたドキュメンタリーを8本制作し、劇場映画はこれで4作目。
様々な切り口で描いてきた中で今回、奥西さんの妹・岡美代子さんをテーマにしたのは、「残された時間の重さを世の中に訴えたい」という思いだった。
「岡美代子さんはもう94歳なので、もしこのまま亡くなってしまったら再審を請求できる人はいなくなってしまう。時間との戦いになってきている中で、速やかに再審を開始してほしいという意味を込めて、46年にわたる東海テレビ『名張毒ぶどう酒事件』シリーズの“最終章”としました。この後は、再審無罪という司法の新たな物語の幕開けにしてほしいと思っています」
その上で、「“家族がこういう目に遭ったら、あなたはどうしますか? 今、私たちはこういう危うい司法環境に置かれているんです”ということを描き込みたかった」「“死刑囚・奥西勝”という括弧でくくられた存在になっていたところを、家族など周りの人たちとの関わりの中で奥西さんのパーソナリティを描き出していきたい」という狙いもあった。
63年にわたり兄の無罪を信じ、再審請求を引き継いだ美代子さん。その原動力を、「やはり家族への思いだと思います。特に無罪を信じ続けたお母さんの思いを受け取って、兄が亡くなった後も自分の命ある限り世に問うんだという気持ちを、心の奥深くに持っているのだと思います」と捉えている。
その思いを象徴するのが、今回の映画で美代子さんが主治医と事件について会話するシーンだ。
「美代子さんの主治医が、こう語りかけます。最初に現場に駆けつけた医師が自分の父で、叔母も事件に巻き込まれて3日間失神していた、と。主治医は“昔のことはあまり思い出さんほうがええか”と言うんですが、美代子さんは事件のことを“ちょっとの間も忘れたことない”とはっきり言うんです。美代子さんの日々の暮らしに、事件がくさびのように打ち込まれていて抜けることがなかったんだと思いました。
冤罪に巻き込まれた親族がどういう思いでいるのか、胸を締め付けられるシーンです」
休日に自費で取材を始めたスタジオカメラマン
東海テレビで名張毒ぶどう酒事件の裁判に疑問を持ち、最初に取材を始めたのは、スタジオカメラマンだった門脇康郎氏。着手したのは、事件発生から17年が経った1978年のことだった。阿武野氏いわく「当時、司法とメディアの関係は、神聖な判決に疑義を申し立てるような報道がはばかれるという雰囲気だったのではないか」という中で、報道部の所属でもない門脇氏は、“どんな部署にいようとテレビ局員は皆、ジャーナリストであるべき”という考えの持ち主で、休日に自費で取材を続けていたという。
その後、報道部が番組化を決めて組織的に関わることになり、門脇氏をディレクターに立て、87年6月29日に『証言~調査報道・名張毒ぶどう酒事件』というドキュメンタリーを放送。その後、再び組織は取材から遠のくが、門脇氏の活動は続いた。
そして、2005年に再審の開始決定が出る。この時、ドキュメンタリーの責任者になっていた阿武野氏が、門脇氏に「今度は途中で投げ出したりせず、最後までやります」と協力を求め、齊藤潤一氏(現・関西大学教授)が2代目ディレクターとなって、06年3月19日に『重い扉~名張毒ぶどう酒事件の45年~』を放送した。
以降、継続的に取材を続け、14年に鎌田氏が3代目のディレクターとなり、現在に至る。阿武野氏は「2005年から、齊藤潤一と鎌田麗香という2人のディレクターが視点を変えながら多角的に取材を展開したので、それらの成果を盛り込んだことで今回の作品の膨らみになっていると思います」と解説する。
事件を追い続けることで足腰が強くなった
映画にも映し出されている当時の映像は、事件現場にカメラが入り、布団がかけられた犠牲者の姿などが衝撃的だ。「東海テレビが開局してまだ3年しか経っていないので、カメラマンは映画界の出身者でしっかりしていたが、記者は新聞記者の見よう見まねだったそうです。テレビの報道はこうあるべきというのがまだ曖昧な頃の映像なんです」という。
フィルムで撮影していたため、上書きされることなく残っていた当時の映像には、裁判官の現場検証や法廷の様子なども残されており、これが引き継がれてきたことは、「組織メディアの強みだと思います」と強調する阿武野氏。改めて、組織的に継続することの重要性を感じたという。
「この事件を追い続けることで、スタッフの足腰が強くなったと思います。ニュースは瞬発力が必要ですが、瞬発力を支えるのは取材経験です。奥西さんが獄中で亡くなった時に、私たちはとてもショックを受けました。当時、特番を作ったんですが、樹木希林さん(※映画『約束~名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯~』に出演)が“奥西さんの死は無駄ではなかった。長く生きたことによって、若い弁護士たちを育てた”とコメントをくれました。それと同じように私たちスタッフもこの事件に鍛えられたんだと思いました」
冒頭で、阿武野氏は名張毒ぶどう酒事件の仕事を「背骨」と表現していたが、「この事件を追いかけることで、裁判所の中にカメラを入れた『裁判長のお弁当』や、検察庁の内部を写し撮った『検事のふろしき』というこれまでに例のない“司法シリーズ”のドキュメンタリーが生まれていったんです。やはり、しっかりした“背骨”がないと派生していかないので、そういう意味で、私たちのドキュメンタリーの母として、名張毒ぶどう酒事件が支えてくれたという感じがします」と再確認。
「こういう形で作り続けていたことで、私のテレビマン人生も空虚なものにならなかった。名張毒ぶどう酒事件に関われたのは、幸せなことだったと思います」と感慨を述べた。
昨今、テレビを含むマスメディアが「オールドメディア」とくくられ、兵庫県知事選の結果などを受けて「オールドメディアがSNSに負けた」と語られる風潮がある。そんな状況を打破するためにも、「背骨」と意識できるような仕事に取り組むことが必要だと訴える。
「テレビ・新聞は、記者の足腰をもっともっと鍛えて、瞬発力と持続力の両方を持ち合わせるようにならないといけません。
それには、教育システムを整え直すべきです。最近では“夜討ち朝駆け”にタクシーを使うなとか、なるべく出張するなという風潮があるようですが、取材以上に何か大事なものがありますか。波風をたててこその報道ですし、信頼できるメディアになるためには、手間暇かけて記者教育をやり直すしかないと思います」
流れは「疑わしきは罰せず」の方向へ
東海テレビのチームと同じように、組織として引き継ぎながら戦いを続けている弁護団。昨年2月に放送したドキュメンタリーの感想を聞くと、弁護団の一人から「切なかった」という言葉が返ってきたという。阿武野氏は「もう一度ファイトしてもらいたいと思って、応援する意味も込めて作ったんですよ」と伝えたそうだが、「やはり長年にわたって道を閉ざされ続けると、“またこれも徒労に終わらせられた”という気持ちになってもおかしくないですよね。(1月29日に第10次再審請求の特別抗告が棄却されたばかりで)ちょっと感傷的なタイミングだったのかもしれないです」と理解する。
だが、昨年9月に袴田巌さんの再審無罪が決定し、10月には1986年に福井県で起きた中学生殺害事件で服役した前川彰司さんの再審が決まった。12月には紀州のドン・ファン死亡事件で元妻に無罪判決が出され、実は名張毒ぶどう酒事件でも第10次再審請求で初めて、裁判官の1人が再審を開始すべきとする意見を述べている。
この流れに、「“疑わしきは罰せず”という裁判の原則の方向へ振り始めている感じがします」と、希望を抱く阿武野氏。今回の映画には、「裁判官は憲法以外に拘束されるものはないはずなんです。若かろうがベテランだろうが、裁判官は一人ひとりが独立していて、やる気さえあれば、組織のしがらみからも自由、先輩たちの判決も間違いは間違いと言えることを再確認したいんです」と思いを込めている。
さらに、「一審の時は、裁判官が事件現場に足を運んで検証もしているのですが、今の裁判官は忙しすぎるのか、現場検証をすることがほとんどありません。
その点からも、裁判官のあり様というものを、もう一度考え直してみる必要があります。正しい判決を下してもらう裁判官の労働環境を、社会全体で担保していかなければならないと思います」と力説した。
○戦後80年にメディアがどういうメッセージを出せるか
東海テレビを退職する2年前に、名古屋から岐阜県東白川村に移住した阿武野氏。「夏は、毎日4時間くらい草刈りをしていました。汗だくですが、ゆっくり時間が流れているような気がします。村の人が訪ねてきてくれていろいろ話して、あくせくしていないのがいいですね。ドキュメンタリーで出会った大病院の院長が村の医療にアドバイザーとして手を貸してくれたり、自分が持っている人のつながりも村に使ってもらえればと思っています」と、充実の村人生活を送っているようだ。
東白川村は、戦後50年の年に、村の古老が各戸を回り戦争遺品を集めて平和祈念館を開館させていくその課程を追いながら、村と戦争の関わりを描いたドキュメンタリー『村と戦争』(95年)の舞台だ。阿武野氏は最近、自身が手がけたこの作品の上映会を、戦後80年に向けて村で3回開いた。200人を超える村人が参加したが、「“30年前と今で、どちらが戦争に近いと感じますか?”と尋ねたら、全員が今のほうが戦争が近いと答えたんです。それはウクライナやガザの問題だけじゃなくて、日本が戦争に傾いていくという危機感だったんです」ショックを隠せなかったという。
それを踏まえ、「2025年は戦後80年なので、ここでメディアがどういうメッセージを出せるか。
それも、信頼につながってくると思います」と気を引き締める阿武野氏。自身も「何かできたらと思って、ローカル局でずっと作り続けているスタッフと何かしたいと準備しています。コツコツ作り、メッセージをし続けてきた地方の制作者の底力も知ってほしい」と明かした。
翻って古巣への思いを聞くと、「現場は一生懸命にやっていると思いますが、今いるスタッフたちが気持ちよく作れる環境を、組織がどう守れるかでしょうね。制作者に対するリスペクトに欠けると、素晴らしい表現は影を潜めますから。新規事業もいいですけど、テレビ局にとって一番大事なのは番組だという原点に戻って、たゆまぬ努力で道を切り開いてほしいと思います」と期待を示した。
●阿武野勝彦1959年生まれ。静岡県出身。同志社大学文学部卒業後、81年東海テレビ放送に入社。アナウンサーを経てドキュメンタリー制作。ディレクター作品に『村と戦争』(95年・放送文化基金賞)、『約束~日本一のダムが奪うもの~』(07年・地方の時代映像祭グランプリ)など。プロデュース作品に『とうちゃんはエジソン』(03年・ギャラクシー大賞)、『裁判長のお弁当』(07年・同大賞)、『光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~』(08年・日本民間放送連盟賞最優秀賞)など。劇場公開作は『青空どろぼう』(10年)、『長良川ド根性』(12年)で共同監督。『平成ジレンマ』(10年)、『死刑弁護人』(12年)、『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(12年)、『ホームレス理事長 退学球児再生計画』(13年)、『神宮希林』(14年)、『ヤクザと憲法』(15年)、『人生フルーツ』(16年)、『眠る村』(18年)、『さよならテレビ』(19年)、『おかえり ただいま』(20年)、『チョコレートな人々』(23年)、『その鼓動に耳をあてよ』(24年)、『いもうとの時間』(25年)でプロデューサー。個人賞に日本記者クラブ賞(09年)、芸術選奨文部科学大臣賞(12年)、放送文化基金賞(16年)など、「東海テレビドキュメンタリー劇場」として菊池寛賞(18年)。著書に『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』(21年)。24年1月末で東海テレビを退職。「オフィス むらびと」代表。
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