フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○軍からの注目

1937年 (昭和12) 7月7日、中国・北京郊外で盧溝橋事件が勃発した。すでに満州事変――1931年 (昭和6) 9月に日本の関東軍が中国軍との武力衝突を起こし、中国東北部にある満州を占領下に置いた――から日中間の戦いは始まっており、この盧溝橋事件を端緒とした戦火は中国全土へと広がった。日中戦争である。国民の生活を少しずつ侵食していた戦時色は一段と濃くなり、軍国主義化――「すべては戦争に勝ち抜くため」と、軍を優先する世相となっていった。

こうした世相のなか、写真植字機はこれまでとちがう側面から注目されるようになった。印刷は、占領地における宣伝・宣撫用の印刷物作成に欠かせぬ存在だ。しかし当時主流だった活版印刷を新たな地で一から立ち上げようとすると、何万~何十万本もの鉛活字が必要となり、広大な場所と設備投資が欠かせない。これに比べて写真植字ならば、1台の写真植字機とひとそろえの文字盤で数十万本の活字と同等の働きができ、場所もとらない。こうした簡便性と機動性が、陸海軍から注目されたのだ。写真植字機を導入すれば軍の内部で作業をおこなえるので、機密保持の側面からも都合がよかった。[注1]

1937年 (昭和12) 、『印刷雑誌』 (印刷雑誌社) 編集人・郡山幸男の紹介で、三宅坂 (現 東京都千代田区) [注2] にあった陸軍参謀本部から茂吉のもとに、写真植字機を導入したいと申し入れがあった。
写真植字機研究所内に熟練者がいなかったので、茂吉は加藤製版印刷所に写真植字機の責任者として派遣されていた並木幸三を呼び、写真植字機研究所での印字テストへの立ち会いを頼んだ。といっても、ただの立ち会いではない。写真植字機がどれほどのものなのか、陸軍関係者はそれが見たかったのだ。

原稿を渡され、その場で印字するよう指示された並木は、「民間と異なり、軍関係では、印字作業をするにも厳しく時間が制限されるだろう。いま自分が印字するこの瞬間が、勝負どきだ」と意気込み、決められた時間内に印字をしてみせた。校正をしたところ、打ちまちがいは2カ所のみ。こうして並木のデモンストレーションにより写真植字機研究所は難関を突破し、陸軍参謀本部から2台の受注に成功した。[注3]

納入後は、写真植字機研究所から古谷野泰治がオペレーターとして派遣され、軍関係の組版に従事した。またこの年は、奈良県の天理教本部にも1台、写真植字機が納入された。[注4]

軍関係から写真植字機の注文が入るきっかけをつくった並木幸三は、つぎに大阪の天王寺でコロタイプ印刷などをおこなっていた細谷真美館に、写植機導入のため派遣された。[注5] 細谷真美館は1937年 (昭和12) に1台、翌1938年にもう1台の写真植字機を導入している。[注6] 『印刷雑誌』によれば、同社はもともと絵画説明用 (ネーム) として (筆者注:コロタイプで制作していた絵葉書などのキャプション用か) そうとうな活版部を持っていたが、写植機を1台導入したことで活版場を半分に減らすことに成功。
この効果を喜び、2台目を導入したところ、活版場を全廃することができた。そこで、空いたスペースにオフセット印刷機2台を設備し、オフセット印刷兼業となったのだという。[注7]

○いくという支え

こうして1937年 (昭和12) 以降、ぽつぽつと写真植字機の注文が入るようになっていくが、その直前期まで写真植字機研究所は、経済的に苦しい時期が続いていた。1936年 (昭和11) 11月2日に入所した伊藤六郎は、こんなふうに振り返っている。

〈わたしたちが写植の仕事についたころは、写研は経済的にはいちばん苦しい時であり、仕事には情熱を傾けられる時代であったように思われました。年産数台の生産と印字部の収入は、今日から見ても、あまりにも少な過ぎました。(中略) 職員四名と工員十五名くらいで、社会的にもいまだその存在すら知られない時ですから、それをささえる経済負担はなみなみならぬ苦労だったと思います〉[注8]

さらに伊藤はこう続ける。
〈またそのなかで研究される先生とそれをささえる奥様のご苦労は察するにあまりあります〉[注9]

実際のところ、妻・いくの存在は茂吉にとって、また写真植字機研究所にとって、大きなものだった。機械の注文が入りはじめた1937年 (昭和12) 以降、研究所の財政には少しずつゆとりが生まれ、それまでにこしらえた8万円近くの借金の証文は、1枚、また1枚と減っていったが、その采配は、いくの力によるものだった。

いくは、茂吉の妻だったというだけではない。写真植字機研究所で茂吉がおこなっていた研究と製造、それ以外のすべてを担っていたといってもよかった。研究所の総務の仕事だけでなく営業渉外もおこない、経営者的立場でもあった。
さらには住み込みの研究所員たちの寮母であり、家庭の主婦でもあって、それらすべてを手際よくこなした。研究所や家庭用の資材や備品はいつでもきっちりそろえられており、「あれがない」などと所員があわてて買いに走り出さなくてはならぬようなことはなかった。茂吉が研究開発に専念できるよう、その環境をつくっていたのは、いくだったのだ。[注10]

こんなエピソードがある。

満州からの写真植字機の注文に取り組んでいた1934年 (昭和9) ごろだろうか。いくはその日、風邪で熱を出し、休んでいた。夜9時ごろ、写植機の部品の下請け先から「約束の期限にどうしても間に合いそうもない。納品を待っていただけないか」と使いが来た。しかし、それは絶対に遅れるわけにはいかないものだった。いくはすぐに寝床から出て身づくろいをすると、茂吉にはなにも告げずに家を出た。驚いたのは、所員の佐々木松栄だ。まかないの手伝いと印字部の作業員をしていた佐々木は、あわてていくを追いかけ、王子駅でようやく追いついた。
そして、魚籃坂 (現 東京都港区三田) にあった依頼先の工場までついていった。

〈その時の奥様の相手の工場主に対する交渉ぶりはみごとなもので、男の人でもこうはいかないのではないかと思ったものです。相手は奥様の熱意に負け、期限には必ず間に合わすと確約しました〉[注11]

こんなとき、〈相手が待ってくれというなら、よほど都合があってのことだからしょうがないじゃないか〉と言うのが茂吉だった。しかしそうして待ったなら、写植機の注文先との契約に縛られている茂吉自身がやがて苦しめられる。それを意に介さないのが茂吉なのだが、茂吉が苦しむとわかっていれば、じっとしていられないのがいくなのだった。だからこのときも、いくは茂吉に黙って出かけたのだろう。[注12]
○出産と育児のさなかに

ある日、いくは急な両眼の視力の低下を感じた。どうにも見えづらい。医者に診てもらうも、「気の疲れからくるもので、眼そのものには異常はありません」と言われた。

茂吉はそれを聞き、いくに京都に行くことをすすめた。茂吉は当時、西田天香が主宰する一燈園に私淑しており、その知徳研修会への参加を促したのだ。潔癖すぎるほど几帳面ないくに、少しでもゆとりを与えてやれたらという、茂吉なりのおもいやりだった。


「なにか得るものがあれば」
いくはそうかんがえ、茂吉のすすめるまま京都に出かけた。しかし、そこでの4日間におよぶ修行と奉仕の生活と教えは、いくにとっては浮世離れしたものであり、現実的な商売を切り盛りする彼女には実感としては会得できなかった。

結局、いくの一燈園行きは、茂吉の期待した効果は得られなかった。しかし幸いしばらくして、いくの視力は元のとおりに回復した。

いくの一時的な視力低下は、たしかに疲れからきたものだったろう。それは「気の疲れ」もあっただろうが、「身体の疲れ」もあったのではないか。じつはその前年の1936年 (昭和11) 12月、いくは末っ子 (第八子、四男) の不二雄を出産していた。いくのことだから、産後も十分に休息せずに、すぐさま仕事に家事に走り回ったのではないか。産後の疲れによる一時的な視力低下は、現代でも聞く話である。写真植字機の歴史のなかで、いくの内助の功が語られることはよくあるが、彼女がそのすさまじい忙しさのさなかに、数年おきに出産し、子どもたちを育ててきたことはほとんど注目されていない。

いくの最初の出産は、1913年 (大正2) 7月。19歳のときだった。
このとき生まれた長男・丑二は早産のため、すぐに亡くなってしまった。続いて、1914年 (大正3) 8月に長女 (第二子) 宣子、1917年 (大正6) 10月に二男 (第三子) 緑郎が誕生したが、ふたりとも1920年 (大正9) 8月に不運な事故により亡くなってしまう (本連載 第8回参照) 。

1920年 (大正9) 12月、二女 (第四子) 千恵子が誕生。1922年 (大正11) 11月、三男 (第五子) 圭吉誕生。1926年 (大正15)、三女 (第六子) 裕子誕生。その後1929年 (昭和4) に誕生した四女 (第七子) 和子は、1932年 (昭和7) 3月に亡くなってしまう。

そして1936年 (昭和11) 12月、四男 (第八子) 不二雄が誕生したのである。このとき、いくは42歳になっていた。[注13]
○製作者と経営者

こうしたなかで、写真植字機研究所の大きな柱として、いくは仕事をこなしていたのだ。茂吉は一度もいくに「仕事を手伝ってほしい」と言ったことはなかったが、いくは茂吉が苦労するのをじっとして見てはいられない性分だった。[注14]

茂吉が「静」なら、いくは「動」だった。同じ得意先のことでも、ふたりの考え方は対照的だった。

〈「一度客に渡してしまえば、多少不備な点があってもあとでとり返しがつかない。納期はずれても気付いたところは完全に手入れをして出すのが客への本当のサービスだ」という茂吉に対し、夫人は、
「納期を目安にしていろいろ準備をしている先様の迷惑を考えれば、一応のところで機械を出すべきで、悪いところがあればあとで直してもよいではないですか。それがお客への責任ですし、そうでなければこちらの経営もやっていけません」というのであった〉[注15]

ふたりとも、己の良心に則ってかんがえている。ただし、茂吉は「製作者として」、いくは「経営者として」の良心なのだった。かつて、森澤信夫と石井茂吉は、対照的がゆえの名コンビだった。じつは茂吉といくも、対照的がゆえに互いを補いあう名コンビだったのだ。
○家族と茂吉

しかし茂吉は、仕事ばかりに没頭して、出産や育児に奔走するいくを顧みない夫ではなかった。末っ子・不二雄の出産のときには、こんなエピソードが残っている。先述の写真植字機研究所員・佐々木松栄の手記に見られるものだ。

〈ある朝のことです。わたしたちは二階の寝室から朝食の用意をするため階下の台所にまいりますと、どうしたことか、お米はざるにあげられており、そこには真新しいたらいが置いてあるではありませんか。しばらくしてわたしたちははっと気がつきました。奥さまのお産だったのです。いつもは机に向かってただ黙々と研究をつづけておられる先生が、いざ奥さまのお産となると、実に手ぎわよく万端とどこおりなくすまされたことを知りました。夜中のこととてわたしたちを起こそうともなさらず、ご自分ですまされた先生の暖かいお心づかいが尊く思い出されます。
 この朝お生まれになったのが不二雄さまです。したがって不二雄さまはおとうさまじきじきの手によって沸かされたお湯でうぶ湯をつかわれたわけです〉[注16]

忙しかったゆえに子どもたちと顔を合わせる時間はなかなか取れなかったが、しかし振り返ったときに子どもたちの印象に残る茂吉は、おだやかで温厚な父だった。

千恵子、圭吉、裕子の三人の子どもたちは元気に成長し、学校のかたわら文字盤や光源電球のフィラメントづくりを手伝って、両親を助けた。とくに1937年 (昭和12) 春に忍ヶ岡高等女学校を卒業した千恵子は、茂吉とふたりで初期の文字盤づくりに取り組んだことを、手記に残している。

〈女学校を卒業してから二、三年の間は、わたくしは父の文字盤の仕事を手伝っておりました。ガラスの文字盤の、修正とはり合わせの手伝いです。そのころは、植字機のできる数が少なかったので、文字盤も、修正はわたくしと女の人ふたりくらい、はるのは父とわたくしだけでしていました。初めは家の文字盤室ではっていましたが、後にはそのころ河岸にあった機械工場の中で、夜、はりました。必要がおきると、夕食後出かけていって、たいてい九時前後までいたと思います。人のいなくなった静かな工場の片すみで、こんろを中に父と向かいあって、役割はいつも、わたくしがガラスの上にバルサムを薄くのばし、父がはり合わせていくのでした。黙って仕事をしながらも、父とふたりで過ごす楽しい時間でした〉[注17]

こうして家族の協力も得ながら、年産数台の初期の写真植字機はつくられていった。

(つづく)

※しばらく、毎月第2火曜日の更新となります。
次は8月12日更新予定です。

[注1]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.149、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.38

[注2] 三宅坂:東京都千代田区。内堀通りを半蔵門外から警視庁のあたりまで下る坂
千代田区観光協会https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/174

[注3] 並木幸三「『機械』と『文字盤』を仲介」印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』2月号 (476)、印刷時報社、1984-02. pp.25-27 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2025-05-25)

[注4] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.149

[注5] 並木幸三「『機械』と『文字盤』を仲介」印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』2月号 (476)、印刷時報社、1984-02. pp.25-27 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2025-05-25)

[注6] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.48

[注7] 「蒙疆政府印刷部が写真植字機を設備」『印刷雑誌』21(12) 1938年12月号、印刷雑誌社、1938 p.59
なお、このコラム内では〈大阪の某コロタイプ屋さん〉と語られ具体的な社名は出ていないが、『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』掲載の〈戦前の出荷先一覧〉などで確認すると、時期的に細谷真美館を指していると推測されるため、ここに引用した。

[注8] [注9] 伊藤六郎「技術と精神の指導者」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.16

[注10] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.149-153

[注11] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.150

[注12] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.151

[注13] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.64、年表を参照

[注14] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.149-153

[注15] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.152-153

[注16] 佐々木松栄「先生の人間味」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.69-70

[注17] 三好千恵子「父と過ごした日々」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.232-233

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇念の歩み〉』(写研、1975)
「蒙疆政府印刷部が写真植字機を設備」『印刷雑誌』21(12) 1938年12月号、印刷雑誌社、1938
並木幸三「『機械』と『文字盤』を仲介」印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』2月号 (476)、印刷時報社、1984

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影
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