アートディレクター・映画ライターの高橋ヨシキによる新連載〈高橋ヨシキの最狂映画列伝〉。第1回は、デヴィッド・クローネンバーグ監督の1986年の作品『ザ・フライ』をピックアップ。

「狂っている映画」とは何を指すのか、そして『ザ・フライ』が描いた恐怖の本質に迫る。

【写真】肉体が変貌する過程をリアルに描いた『ザ・フライ』(1986)場面写真

■「狂っている映画」とは?

 まず正直に書いてしまうと、映画を観ていて「く、狂っている…!」と思うことはほとんどない。というか、巷間で「狂っている」と言われる作品の多くは逸脱的であれこそすれ、「狂っている」わけではない。また「逸脱」といっても描写がそうであるのか、それとも作品を裏打ちする思想がそうなのか、登場人物が逸脱的なのか、さまざまな場合があることは言うまでもない。まったく逸脱的でない前提の家族向けアニメーション映画を観ていて「く、狂っている…!」と思うこともあるし、逸脱を売りにした映画を観ていてそのあまりの保守性に唖然(あぜん)とさせられることもある。「おそらく最も〈狂った〉映像作品は、何億時間に渡って無為に撮影され続ける世界中のホームビデオの中にこそあるのではないか」と思ったこともあるが、動画SNSがここまで興隆し、短編・長編問わず誰もが「映像作品」を発表するようになった今(「発表できる」ようになったことは、作品作りの環境が手軽になったこととはまた別の意味を持つ)、そうでもなかったことが判明しつつある――自分の知らない場所にこそより異常なものが潜んでいるに違いない、という誤った期待を持ってしまった可能性は高い。

 逸脱的(トランスグレッシヴ)であることは、それだけでは決して「狂気」たり得ないとぼくは思うし、逸脱的な作品が狂気の産物であるという意見にはまったく首肯しかねる。が、過度のコンフォーミズム(体制順応主義)が支配する社会において逸脱性が一種の狂気とみなされるのは当然の帰結なのかもしれない。蛸壺(たこつぼ)化した社会では「外側」の存在が事実上無化されてしまうからである。逆説的な言い方になるが、そのような状況において逸脱的な表現はますます重要となる。Pornsec(ジョージ・オーウェル『1984年』参照)が提供する偽りの逸脱性でガス抜きされている場合ではないのである。

 だから本稿ではアール・ブリュット、あるいはアウトサイダー・アート的な文脈における「狂気」と、表現においてトランスグレッシヴな地平を目指す動きを区別しない。
逸脱へと向かう主体が作者の精神なのか、それとも作品そのものがそれを志向しているのか、というような分類を恣意的に行うことは可能だが、ゴシップ的に憶測混じりで「作者の逸脱性」を語ることが総じて作品への理解を深めるわけではないからである。また表現すべてについて言えることだが、映画におけるトランスグレッシヴな表現も作者の意図した部分に留まるものとは限らない――だからこそ、家族向けのアニメーションにトランスグレッシヴな表現がひょっこり顔を出すようなことが起こり得る。

■『ザ・フライ』のヒトからハエへの変貌が示すもの

 1958年のホラー映画『ハエ男の恐怖』をデヴィッド・クローネンバーグ監督がリメイクした『ザ・フライ』は大ヒットした作品で、1986年度の全米興行収入ランキングでも23位につけている(23位は低いように感じられるかもしれないが、ホラー映画としては20位の『ポルターガイスト2』に次ぐ順位である)。

 『ザ・フライ』がHIVのメタファーとして機能している、ということは公開当時から指摘されているが、それについてここでは一旦措(お)いておく。一つにはそれが実際の疾病のイメージを怪物化することにつながりかねないのと(映画自体はそうならないよう注意深く作ってあると思うが)、その「分かりやすさ」が作品そのものへの接近を妨げるからである。

 クローネンバーグの多くの作品と同様、『ザ・フライ』はセックスにまつわる物語である。ハエと遺伝子レベルで結合したブランドル博士(ジェフ・ゴールドブラム)がそのことによってハイパー化する過程は『透明人間』(1933)を受け継ぐものであり、リビドーに突き動かされて徘徊(はいかい)する様子は『狼男』(1941)の再解釈とみることができる。「ブランドルフライ」は、オリジナル版の『ハエ男の恐怖』より以前の、ユニバーサルのクラシック・モンスターの継承者である(『ハエ男の恐怖』はむしろ続編の『ザ・フライ2/二世誕生』においてより強く意識されている――プレス機/エレベーターによる人体の破壊はその一例)。ブランドルフライへの移行は『ビデオドローム』(1982)の主人公の腹に生じたヴァギナ状の亀裂同様、主体のうちにありつつ他者性を主張する外性器への恐怖と憧憬が入り混じった感覚を呼び起こす。

 クローネンバーグはレトリックを「字義通り」に映像化することがままあるが(「頭が割れるように痛い」というレトリックが『スキャナーズ』の有名な頭部爆発場面を生んだ逸話はよく知られている)、それに倣(なら)うなら徐々にヒトとしての形態を失うブランドル博士は性欲に主体性を奪われた結果、文字通りの「セックス・モンスター」へと変貌していく、と見ることもできる。であればこそブランドルフライが白濁した消化液を吐き出して相手に攻撃を加えることの理由もはっきり見えてくる――その最初の兆しは酒場での腕相撲対決のときに既に描かれている(組み合った手指の間から同じような液体がしたたっているのに注目されたい)。

■ブランドル博士は何を真に恐怖していたのか

 ブランドル博士はヘテロの男性なので、「セックス・モンスター」化する過程はトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)への急接近と並行して進行する。
酒場でゴロツキ相手に腕相撲に挑み、それに付随する「トロフィー」として女性を研究室に連れ帰るとき、そこにいるのはもはや内気で変わり者の科学者ではない。それは「男性性の怪物」である。ただ、この「男性性の怪物」と化すことに対するブランドル博士のアンヴィヴァレンスが本作の悲劇性を担保していることは言うまでもない。片方の耳が腐り果てて落ちたときーーこれもやっぱり「字義通り」に解釈するべきで、ここでは彼が「人の話にもはや耳を貸さない存在となりつつある」ことが示されている――ブランドル博士は「ぼくは怖い」と吐露してしまう。その恐怖は内なる他者に存在を上書きされる恐怖である。

 本作をHIVのメタファーとして考えた場合に問題となるのは、「ハエ」の存在があくまでも外的な要因に留まってしまうということである。『ザ・フライ』の恐怖の本質は内側から――性的に――自分が書き換えられてしまうところにあり、内的な部分が外的な全体を決定してしまうというところにある。これはクローネンバーグ作品でたびたび繰り返されるテーマでもある。「ハエ」はあらかじめブランドルの中に存在していたのだ。映画の前半には、転送実験に失敗したヒヒの胴体がトポロジー的に裏返ってしまうという場面がある。まさに「内面が外面と入れ替わって」いたわけだが、それと同じことがブランドル博士の場合も起きていたのである。ただ、ヒヒの場合が逐語的な表現だったのに対して、ブランドル博士の場合はそれが修辞的に行われていたということだ。


■マシンとの融合がもたらした超・男性性の悪夢

 このように考えると『ザ・フライ』は男女のヘテロセクシャルな営みについておそろしく悲観的なビジョンを示した作品に見えてくる。ヒロインのヴェロニカ(ジーナ・デイヴィス)の視点に立って考えるとそれがより明白になる。元恋人で上司のステイシス(ジョン・ゲッツ)は下品でセックスに未練たらたらの男として描かれるが、そういうトキシックな男性性の対極にあると思われたブランドル博士が結局ステイシスをはるかに越える男性性のモンスターと化すわけで、そこに救いは全くない。なおステイシスの人物像は不快ではあるものの、映画内で彼に課される懲罰が明らかに過剰だということは指摘しておきたい。そこではモラル・テールの幅を完全に逸脱した「復讐」が行われている――ここで重要なのはステイシスがヴェロニカを堕胎クリニックに連れて行ったことで、それに激昂してヴェロニカを奪還するブランドルフライは「プロ・ライフ」を訴え産婦人科にテロを仕掛けるような、ファナティックで家父長制に取り憑かれた男のようにも見える。

 衝撃的なラストシーンについても検討する必要がある。ヴェロニカと融合しようと試みたブランドルフライは、ステイシスが機械を銃撃したことで転送機の一部と融合し、グロテスクなバイオメカノイドと化してしまう。『ザ・フライ』の転送機のデザインがクローネンバーグ所有のブガッティのバイクのシリンダーを模していることはよく知られているが、そのことを踏まえてブランドルフライがバイクと奇形的な結合を果たした、と考えるのは行き過ぎだろうか? 『スコピオ・ライジング』(1963)が夢想したマチズモとモーターサイクルの融合を実体化したのがブランドルフライ=テレポッドではなかったのか? 高速でピストンが往復し、混合気が爆発を繰り返すバイクのシリンダーと一体化したことでブランドルフライは超・男性性を手に入れられたのだろうか? そうかもしれないし、そうではないかもしれない。憐れみを誘うブランドルフライ=テレポッドの造形は、機械的なファリック・シンボルと合一を果たしたことによって、逆に身体の自由を失い粘液の中を這いずり回ることしかできない存在となってしまった悲哀を表現しているようにも見える。ここではセックスは完全に恐怖の対象である。何より恐ろしいのは、その恐怖が現実のセックスと直結しているところで、我々はブランドルフライの、あるいはブランドルフライ=テレポッドの中に、セックス・ファンタジーを追い求めた果ての自分の姿を見るのである。

<高橋ヨシキ>1969年生まれ。
早稲田大学第一文学部中退・復学のち除籍。雑誌、テレビ、ラジオ、インターネットなどメディアを横断して映画評論活動を展開。著書に、『悪魔が憐れむ歌』(洋泉社)シリーズ、『高橋ヨシキのシネマストリップ』(スモール出版)シリーズ、『暗黒ディズニー入門』(コア新書)、『高橋ヨシキのサタニック人生相談』(スモール出版)など。8月26日より、長編監督デビュー作『激怒』の公開が控える。

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