映画館の暗闇の中でただ待っていても、何も始まらないよ──。1970年代のカルチャーシーンにおいてカリスマ的存在だった寺山修司は、初監督作『書を捨てよ町へ出よう』(71)の冒頭、映画館へ足を運んできた観客たちをスクリーンの中から挑発してみせた。

本を閉じて、現実の町へ繰り出そう。映画を見るのではなく、君が映画の主人公になればいい。詩人、劇作家、演出家と多彩な才能を発揮した寺山は、新しい時代のアジテーターだった。47歳で亡くなった寺山が今も生きていれば、ネット検索なんかやめて、自分の肉体を使って夜の街を検索して回りなさいと説いたんじゃないだろうか。大ブレイク中の菅田将暉と『息もできない』(09)のヤン・イクチュンがダブル主演した『あゝ、荒野』は、寺山が残した同名小説の映画化であり、半年にわたってボクシングのトレーニングに励んだ菅田とイクチュンとがお互いの肉体をぶつけ合うことで奏でる愛憎のセッションを観客は体感することになる。

 アニメ『あしたのジョー』の主題歌を作詞し、菅原文太清水健太郎主演映画『ボクサー』(77)を監督するなど、ボクシングという肉体言語の世界をこよなく愛した寺山修司。
映画『あゝ、荒野』は前後編合わせて5時間5分にわたり、寺山ワールドを現代的に咀嚼して見せていく。時代設定は『あゝ、荒野』が執筆された1966年ではなく、2度目の東京五輪が終わった2021年。寺山が呑み歩いた猥雑なエネルギーが渦巻く新宿が舞台だが、近未来の新宿は爆破テロが度々起き、ラブホテルは老人介護施設にリニューアルしつつある。そんなかつてのネオンの荒野で、どこにも自分の居場所を見つけることができずにいる不良児・新次(菅田将暉)と吃音症の建二(ヤン・イクチュン)が寂れたボクシングジムで出逢い、殴り倒すか倒されるかの世界に生きる喜びを見出していく。

 幼い頃に母親に捨てられた新次は振込み詐欺などの裏稼業で羽振りよく暮らしていたが、同じ養護施設で育った後輩・裕二(山田裕貴)に裏切られ、少年院送りとなった。出所した新次は喫茶店で声を掛けたヤリマン女・芳子(木下あかり)と連れ込み宿で7~8回連続でSEXしまくり、すっきり気持ちよく翌朝を迎える。
ところが目覚めると、芳子の姿と共に新次の所持金も消えていた。新次に唯一残されていたのは、野獣のように煮えたぎる怒りの感情だけだった。

 一方、理髪店に勤める建二は、自衛官だった父親(モロ師岡)に虐待されながら育ち、30歳を過ぎた今も他人とうまくコミュニケーションすることができない。人に話し掛けようとすると赤面し、吃ってしまう。肉体を鍛え、自分に自信を持てば、会話もできるようになるに違いないと、新宿の片隅にあるボクシングジムを訪ねる。ジムには宿なし、金なし、職なしの新次も来ていた。
居場所のない新次と建二は、バラック小屋同然のジムに共に住み込み、トレーニングに打ち込み始める。家族のいない2人にとっては、ジムを経営する元プロボクサーの片目(ユースケ・サンタマリア)と鬼トレーナーの馬場(でんでん)とが新しい家族だった。

 昭和の臭いがプンプンする原作小説を、今の時代に映画化することには本作を観るまでは懸念があった。だがその心配は、『息もできない』で他人を殴ることでしか自分の感情を表現できない暴力人間を熱演したヤン・イクチュンを韓国から招いたことで見事にクリアされた。『息もできない』の主人公サンフンと違って、本作の建二はおどおどした気弱な男だが、平成の日本人が失ってしまった、生まれついての業だとか、汗くささだとか、白いブリーフパンツに付いたオナニー後のシミだとか、そんな洗練されずにいるものを抱え込んでいる。実際の素顔のイクチュンはインテリな好青年だが、カメラの前に立つと独特の匂いが立ち込める。
これが彼の俳優としてのオーラなのだろう。ヤン・イクチュンという特濃コクだし俳優の存在によって、本作はイケメン主演のヤンチャな青春映画ではない、平成という時代にいまだに馴染めずにいる人々がもつれ、支え合うNEW寺山ワールドとして成立している。また、他人のSEXを覗き見するのが趣味という、ジムの変態オーナーを演じる元「男闘呼組高橋和也が放つ昭和感もいい。青姦中のカップルを彼が覗き見しているシーンを見て、寺山がかつて覗きの現行犯で逮捕された事件を思い出した。

 本作を撮ったのは、門脇麦と菅田将暉が同棲中のカップルを演じた『二重生活』(16)で劇映画デビューを飾った岸善幸監督。是枝裕和監督が長らく所属していた製作会社「テレビマンユニオン」に籍を置き、ドキュメンタリー番組でキャリアを重ねてきた。
『二重生活』もそうだったが、本作でもドキュメンタリー同様にカメラテストなしの本番一発撮りに挑んでいる。リハーサルもないので、出演者たちは自分が演じるキャラクターに完全になりきってカメラの前に立たなくてはならず、監督から「カット!」の声が掛かるまで、そのシーンを延々演じ続けなくてはならない。CM撮りやテレビ出演も多い菅田は、日々溜め込んでいるストレスを「新宿新次」としての狂乱ファイトへと昇華させ、日本語はカタコトしか話せないイクチュンは、言葉の代わりに「バリカン建二」としてハードパンチを繰り出していく。新人ボクサー・新宿新次とバリカン建二の疑似ドキュメンタリーとして物語は進んでいく。

 前編では年齢の離れた兄弟のように仲がよかった新宿新次とバリカン建二だが、同じジムに所属する2人がもっとディープに、より濃厚なコミュニケーションを図るには、リング上で真剣勝負するしか道はない。後編ではバリカン建二は居心地のよかったジムを離れ、最強のライバルとして新宿新次の前に立ちはだかる。
2人にとっては、リング上で生きるか死ぬかの限界まで殴り合うことが、SEXを凌駕するサイコーの愛の交歓となる。かつてないデンジャラスで、サディスティック&マゾヒスティックなボーイズ・ラブロマンスとしてクライマックスへと突き進んでいく。

 裸で闘うのは男優たちだけではない。女優たちも真っ裸になってカメラの前に立つ。ヤリマン女で、窃盗の常習犯であるヒロイン・芳子に抜擢されたのは若手女優の木下あかり。脱ぎっぷりよく、菅田との激しい濡れ場を演じてみせる。新宿の中華料理店でばったり再会した新次と芳子はその後も身体を重ね合う関係となるが、新次がプロボクサーとして自分の生きる道を見つけると芳子は距離を置こうとする。ヤリマン女の純情さに、鼻の奥がツーンとくる。グラビアアイドルとして人気の今野杏南は、「自殺抑止研究会」のメンバー・恵子を演じ、大胆なベッドシーンに挑戦した。今野のたわわな美乳とピンク色の乳首は、新宿という荒野に咲いた清純な花のようだ。ベッドを共にしたイクチュンが羨ましい。ジムを経営する片目が通うバー「楕円」では、震災で家族と故郷を失った女・セツを演じた河井青葉の熟女ヌードも用意されている。闘っているのは男だけでない。女たちもまた多くのものと闘いながら生きていることを実感させる。

 5時間を越える熱い愛憎の物語も、新宿新次とバリケン建二がボコボコに殴り合うことでついに終止符が打たれる。『あしたのジョー』の矢吹丈と力石徹との宿命の対決のような壮絶なラストとなる。これが寺山の主宰した「天井桟敷」の舞台だったら、最後の最後にスクリーンがまっぷたつに割れて、スクリーンの向こう側には夜の街、ネオンの荒野が広がっていることだろう。書を捨てよ町へ出よう。暗闇の中でただ待っていても、何も始まらないよ──。寺山修司は死してなお、時代のアジテーターであり続ける。
(文=長野辰次)

『あゝ、荒野』
原作/寺山修司 脚本/港岳彦、岸善幸 監督/岸善幸
出演/菅田将暉、ヤン・イクチュン、木下あかり、モロ師岡、高橋和也、今野杏南、山田裕貴、河井青葉、前原滉、萩原利久、小林且弥、川口覚、山本浩司、鈴木卓爾、山中崇、でんでん、木村多江、ユースケ・サンタマリア
配給/スターサンズ R15+ 10月7日(土)前篇、10月21日(土)後篇 新宿ピカデリーほか全国公開
(C)2017「あゝ、荒野」フィルムパートナーズ
http://kouya-film.jp