──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
※劇中では主人公の名前はまだ「松平元康」ですが、本稿では「徳川家康」に統一しております。家康に限らず、本連載において、ドラマの登場人物の呼び方は、原則として読者にとってなじみの強い名称に統一します
家康(松本潤)と母・於大の方(松嶋菜々子) | ドラマ公式サイトより
『どうする家康』、第3回「三河平定戦」はかなりシリアスな内容で、戦国の世の不条理と残酷さを描くことに終始し、家康(松本潤さん)の“やる気スイッチ”も残念ながらOFFのままでした。
『どうする家康』番組公式ページでは「信長・秀吉・家康をつなぐ運命の女」と位置づけされているお市ですが、第4回あらすじの「信長の妹・市を紹介される中、信長から盟約を結ぶ代わりに、驚くべき条件を提示される」という一文が気になってしまいました。しかし、この部分について触れる前に、第3回の放送内容をおさらいしてみましょう。
前回も少しお話ししましたが、第4回の放送で結ばれることになりそうな織田家との盟約、通称「清洲同盟」については、締結された経緯やその締結時期が定かではありません。公的な記録があまり残されていないのです。
ドラマでは、家康がまだ乳飲み子のときに於大の方と涙の離別をしていましたが、『東照宮御実記』などの“史実”では、母子が別れたのは家康が3歳のときだったとあります。
母子再会のシーンも、史実通りに描けばそれこそホームドラマ的に素直に視聴者を泣かせられたはずですが、実際のドラマでは、「主君ならば妻子など見捨ててでも家臣と国のために動け」などと家康に忠告するなど、於大の方はかなりクセの強い女性として描かれており、「大胆な読み替えをしているなぁ」という感想を抱くシーンになっていました。しかし、『東照宮御実記』を精読してみると、この再会シーンはひょっとすると、「読み替え」というより、史実を興味深い角度から「解釈」したものだったのかもしれないとも思えました。
『東照宮御実記』では、今川義元の敗死後、岡崎城に戻った家康が、これまで連絡もしていなかった母を思い出し、恋しさのあまり、水野信元とその配下にいた久松俊勝(=於大の方の現在の夫)に「母に会わせてほしい」と連絡を取り、水野の厚意で再会できたという話になっています。
しかし、ここで注目すべきは、『東照宮御実記』において、この母子再会の話の直後に出てくるのが、織田信長との間に結ばれた「清洲同盟」の成立の記述であるということです。『東照宮御実記』に具体的な記述こそありませんが、実際には「母子の再会」という一見感動的なシーンの裏で、ドラマ同様に政治の駆け引きがあったのかもしれません。思えば、わざわざこの時期に家康が「長年疎遠だった母親に会いたい」と急に思い立ち、織田方の水野・久松サイドに申し出たこと自体がやや不自然です。今川家を見限ろうと考え始めた家康が、織田方との接点を見いだそうとして、長年離れ離れだった母親との再会という名目で水野に接近したのでは……というドライな見方もできますよね。
ドラマの家康は、現代の視聴者に近い感覚を備えた人物として描かれています。
また、これも史実ではどうだったかについて諸説あるものの、於大の方のように、実家の利益のため、わが身を生贄のように差し出す政略結婚を繰り返す女性の姿がドラマでは今後も描かれていきそうです。次回から登場する「市」(お市の方)もそうした一人ではないかと思われます。
お市は織田信長の妹として広く知られていますが、従姉妹説などもあり、実は身元は定かではありません。ただ一つ言えるのは、史実の信長が彼女の意思を(信長なりに)尊重しようと振る舞ったということでしょうか。これについてはまた後日、お話する機会もあると思いますので、そのときに……。
ドラマの次回予告ではお市役の北川景子さんが、颯爽と馬に乗って登場するシーンがありました。「勝ち気な絶世の美女」というお市のイメージは、本作でも踏襲されそうです。その一方、冒頭で触れたように、次回の内容は家康が「信長の妹・市を紹介される中、信長から盟約を結ぶ代わりに、驚くべき条件を提示される」のだそうです。もしかしたら、この「驚くべき条件」とは、家康とお市の方の結婚なのかもしれません。(1/2 P2はこちら)
あくまで仮説ですが、「信長の妹お市の方と家康は婚約し、床入りも済ませていた」という見方があります。この仮説を唱えつづけている歴史小説家の安部龍太郎氏は、それを実証する史料の存在はないとしつつも、「2020年になって慶應義塾大学の浅見雅一先生が『キリシタン教会と本能寺の変』でルイス・フロイスがイエズス会総長に宛てた手紙を日本で初めて翻訳、紹介されたんです。
つまり、家康が「信長の義弟」と書かれたのは、お市の方と家康は、正式な結婚にこそ至らなかったものの、実は深い関係にあったからでは……ということですね。「信長から盟約を結ぶ代わりに、驚くべき条件を提示される」というあらすじを見て、もしかしたら『どうする家康』でもその説が採用されるのか!?と若干ワクワクしている筆者でした。
ただ、フロイスは自説を補強するためなら、多少の事実の脚色などは平気で行うタイプの人物で、イエズス会内での信頼度はあまり高くはありませんでした。また、筆者は、「浅見雅一氏が日本で初めて翻訳、紹介した」と安部氏が言っている文章の全体を確認できていないので、家康が信長の「義弟」という記述自体がどの程度の信憑性を持つものかは判断がつきません。
しかし、普通に考えれば、今川家を裏切り、織田家に付いた時点で、家康は今川義元の「養女」である瀬名姫とは離縁したと考えても(史料がないだけで)おかしくはないでしょう。
第4回のあらすじによれば、ドラマでは今川氏真(溝端淳平さん)から瀬名(有村架純さん)は「家康と離縁して側室になれ」と迫られるようですが、それが実際にあったことかどうかはともかく、史実において瀬名姫とその子が辛くも生き残ることができたのは、氏真が義理の妹にあたる瀬名に温情をかけてしまった、もしくは家康への報復のために彼女とその子・竹千代を生かすことにした……という面のほうが大きいのではないでしょうか。
話が横道にそれましたが、このように瀬名姫とは事実上、離婚しているに等しい状態の家康に対し、信長が、彼の妹・お市を新たな正室としてあてがおうとするのは、ありえない話ではないわけです。
ちなみに家康とお市の方が深い仲だったと考えている安部龍太郎氏によると、家康の家臣・松平家忠の『家忠日記』、「天正十年(1582年)五月二十一日」の記述も、その論拠となるといいます(「日本産経新聞」2021年4月18日)。
この日の『家忠日記』によると、信長みずから家康の食事を配膳し、当時、人気のあったお菓子である「麦こがし」を作り、もてなしたとあるのですが、その際、信長から家康に「引き出物」として与えられた品の中には、女性用の絹織物である「紅の生絹(すずし)」も入っていました。これこそ、信長がお市と家康の婚約(というか、内縁の関係?)を祝った行為ではないか……と安部氏は考えているようですが、天正10年5月といえば「本能寺の変」で信長が亡くなる直前の時期ですし、その翌年はお市の方も、二番目の夫・柴田勝家と自害してしまっています。この信長の「おもてなし」が、「清洲同盟」の結ばれた永禄5年(1562年)前後のことであれば話はだいぶ違ってくるのですが……。ただ、「大河ドラマ」は歴史小説と同じくフィクションですので、この際、いろいろと自由に描いていただいたほうが視聴者としては楽しくなるな、と思ったりはしますね。
家康とお市の方の関係の根拠とはなりえないものの、この『家忠日記』の一節については、ドラマや、他の史料で描かれる信長像とは大きく異なり、実際の信長はずいぶんと愛想の良い人だった(少なくとも、そういう一面もある)ということがうかがえるという意味で、興味深い記述です。実は信長には、家臣に手をあげるなどの暴力を振るったとする一次資料は、ほとんどありません。「本能寺の変」の後、明智光秀が「信長から暴力を振るわれていた」という噂を流したくらいなのです。こうした情報も頭に入れたうえで、「狼」として描かれる『どうする家康』の信長をご覧になると、また見え方が変わって面白いかもしれません。そして信長とはとても仲がよかったというお市の方と家康の関係が、ドラマではどう描かれるか楽しみですね。
<過去記事はコチラ>家康の「寅の年、寅の日、寅の刻生まれ」は捏造? 『どうする家康』でも描かれた誕生日問題──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...