イランで実際に起きた連続殺人事件を描いた犯罪サスペンス

 イスラム教の聖地にて、連続殺人事件が起きた。イラン第2の都市・マシュハドはシーア派最大の聖地として巡礼者たちで賑わう一方、アフガニスタンとの国境に近く、アヘンの密売ルートにもなっている。

そんな二面性を持つ大都会で、2000年~2001年に「スパイダーキラー」と呼ばれる連続殺人鬼が現れた。

 犠牲になったのは、すべて女性。夜の街に立つ娼婦たちだった。まるで蜘蛛の巣に掛かるように次々と犠牲者は増えていった。犠牲者数が16人となり、ようやく犯人が逮捕される。捕まった男はサイード・ハナイ。

既婚者で、2人の子どもがいた。サイードはサイコパスではなく、「街の浄化のため」だったと主張した。裁判期間中はサイードを「英雄」と称え、釈放を求める声が上がるなど、イラン社会を大きく揺るがした事件だった。

 セックス、ドラッグ、殺人……。宗教国・イランの知られざる一面を暴き出したのが、アリ・アッバシ監督の実録犯罪サスペンス『聖地には蜘蛛が巣を張る』(原題『Holy Spider』)だ。アリ・アッバシ監督はイラン出身だが、表現活動に大きな規制があるイランでは映画製作はできず、本作はデンマーク・ドイツ・スウェーデン・フランスの4カ国による共同製作となっている。

 映画の冒頭、客を装ったスパイダーキラーの手によってひとりの娼婦が殺害される過程が生々しく描かれる。シングルマザーであるその娼婦には幼い息子がおり、彼女が帰ってくるのを自宅で待っている。命乞いをする娼婦を、あっさりと殺すサイードだった。

 郊外に死体を捨てたサイードは、バイクに乗って次の獲物を求めて夜の街を走る。マシュハドの中心地には大きなモスクがあり、そこから放射線状に路が延びて街が形成されている。俯瞰したカメラが夜の街を捉えると、街自体がまるで巨大なクモの巣のようだ。

アリ・アッバシ監督は連続殺人鬼の素顔だけでなく、殺人鬼を生み出したイスラム社会そのものを描き出そうとしていることが伝わってくる。

連続殺人鬼に挑む女性ジャーナリスト

イスラムの聖地で起きた娼婦連続殺人事件 ミソジニー社会の闇『聖地には蜘蛛が巣を張る』
イスラムの聖地で起きた娼婦連続殺人事件 ミソジニー社会の闇『聖地には蜘蛛が巣を張る』の画像2
ザーラ・アミール・エブラヒミは、カンヌ映画祭女優賞を受賞

 本作の主人公となるサイード(メフディ・バジェスタニ)は敬虔なイスラム教信者であり、善き父・善き夫でもある。イラン・イラク戦争では祖国のために戦場で戦った。普段は建築関係の仕事で汗を流している。犯罪には無縁そうなサイードだったが、家族の留守中に娼婦を自宅に連れ込み、一家の団らんの場となっている居間で殺人を繰り返す。犯行後は地元の新聞社に死体を遺棄した場所を電話で告げるなど、その犯行手口はあまりにも大胆だ。

 サイードと対決する、もうひとりの主人公が女性ジャーナリストのラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)。

イランの首都テヘランから取材に訪れたラヒミだったが、事件の調査は難航を極める。男尊女卑社会であるイランでは、女性がひとりでホテルに泊まるだけでも容易ではない。地元の警察署に勤める捜査官からは、取材に協力した見返りに性的な関係を迫られる。ラヒミが闘う相手はスパイダーキラーだけではなく、イスラム社会全体だった。

 ラヒミを演じたザーラ・アミール・エブラヒミは、イランでは有名なテレビ女優だったが、スキャンダラスな動画が第三者によってネット流出し、2008年にイランを去ることになった。現在はパリで暮らすザーラは、本作にキャスティングディレクターとして関わっていたが、アッバシ監督に出演を要請され、イスラム社会と闘う女性記者・ラヒミを演じている。

2022年のカンヌ国際映画祭女優賞受賞も納得の熱演を見せている。

 ラヒミは被害女性たちの遺族を取材しようとするが、遺族はなかなか口を開こうとはしなかった。娼婦たちの心情を理解するため、またスパイダーキラーに近づくため、ラヒミは派手なメイクをして、夜の街に立つことになる。あまりにも危険な潜入取材だった。そしてラヒミの前に、スパイダーキラーことサイードが姿を見せる。

イスラムの聖地で起きた娼婦連続殺人事件 ミソジニー社会の闇『聖地には蜘蛛が巣を張る』
イスラムの聖地で起きた娼婦連続殺人事件 ミソジニー社会の闇『聖地には蜘蛛が巣を張る』の画像3
「街の浄化のため」にサイード(メフディ・バジェスタニ)は犯行を重ねる

 本作を撮ったアリ・アッバシ監督は、1981年のイラン生まれ。

テヘランの大学在学中にスウェーデンのストックホルムに留学。その後、デンマークの国立映画学校で演出を学び、北欧を拠点に活躍している。前作『ボーダー 二つの世界』(18)はカンヌ国際映画祭「ある視点」部門の大賞を受賞した、気鋭の映画監督だ。カナダで新作の準備を進めていたアッバシ監督が、コペンハーゲンよりリモート取材に応えてくれた。

アッバシ「低予算で映画を撮ることには、すでに慣れています(笑)。でも、今回はそれとは違う難しさがありました。イラン政府を敵に回す内容だったため、打ち合わせの際に関係者の中に当局側のスパイが混じっているのではないかと警戒したり、当局はこの映画の情報を入手していて、撮影の邪魔をするんじゃないか、キャストやスタッフが危険な目に遭うんじゃないかという心配がありました。そのこともあって、撮影用の衣装などを購入する場合は、テレビドラマの撮影だと偽って準備を進めたんです。僕は嘘をつくのが下手なので苦労しました。ドキュメンタリー作品を撮る監督はこうした極秘の撮影に慣れているかもしれませんが、僕らが撮ったのは劇映画であり、スタッフとキャストを合わせると100人近いクルーだったので、秘密裡に動くのは容易ではありませんでした」

 検閲が厳しいイランだけでなく、イスラム圏での撮影は困難だったと語る。

アッバシ「最初はイラン国内で撮影しようと、正規の手順で撮影の許可をもらおうとしたんです。1年半にわたって交渉しましたが、やはりダメでした。それでイランと似たような中東の他の国をロケ地として探したんです。トルコで撮ろうとしたんですが、トルコ政府に対してイラン政府が『撮影を許可しないように』との要請がされており、トルコでの撮影もできませんでした。それでヨルダンがロケ地になったんですが、イラン人監督が映画を撮ることはヨルダンでは歓迎されず、撮影は難航しました。イランの映像素材が必要な場合は、スタッフがこっそりとイランで撮影してきたんです」

 アッバシ監督は覚悟の上での撮影だったようだ。このことはあとで詳しく語ってもらおう。

娼婦を求めながら、その存在を否定した偽善的社会

イスラムの聖地で起きた娼婦連続殺人事件 ミソジニー社会の闇『聖地には蜘蛛が巣を張る』
イスラムの聖地で起きた娼婦連続殺人事件 ミソジニー社会の闇『聖地には蜘蛛が巣を張る』の画像4
被害者遺族たちは事件について触れられることを嫌った

 スパイダーキラーの獲物となるのは、街角に立つその日暮らしの娼婦たちだ。本作に登場する娼婦たちの多くは衣服を脱ぐと、体中がアザだらけである。客である男たちから、連日のように酷い目に遭っていることが分かる。それでも家族を養うためには、体を売り続けるしかない。セックスワーカーの多くは、生活のためにセックスビジネスに従事している。イランでは、彼女たちのそうした社会的背景は問題になったのだろうか。事件当時はまだイランにいたアリ・アッバシ監督に振り返ってもらった。

アッバシ「マジアル・バハリ監督が撮ったドキュメンタリー『And Along Came a Spider』(03)には事件の犯人であるサイード・ハナイや彼の家族も出ていて、今回の映画づくりの参考にすごくなりました。YouTube上に無料でアップされているから、ぜひそちらも観てください。そのドキュメンタリーの中では、裁判所の判事が、被害者たちが貧困状況にあったことを語っています。被害者たちが経済的に厳しい状況だったことは当時から分かっていたものの、彼女たちの職業はスティグマとなっており、負のイメージを払拭することができなかった。貧しさからそうした仕事に就かなくてはならないことを、イランの人たちは頭では理解していたのに、その事実からは目を背けたわけです」

 宗教国としての建前と人間の欲望とが、どうしようもなく乖離している様子をアッバシ監督は本作で赤裸々に描いている。スパイダーキラーによる連続殺人事件が話題になっている最中も、生活のために娼婦たちは夜の街に立ち続けた。

アッバシ「彼女たちが夜の街で働き続けたということは、彼女たちのサービスを求める男たちがいたということです。彼女たちのサービスを求めながらも、その一方では彼女たちの存在は否定されていた。ひどく矛盾した、偽善的な社会だったと言えるでしょう」

 イランを離れたアリ・アッバシ監督は、長編デビュー作『マザーズ』(16)では社会格差や男女の価値観の違いをモチーフにし、長編第2作となったホラーファンタジー『ボーダー 二つの世界』では人間とモンスターとの境界について問い掛けている。男と女、建前と本音、富裕と貧困、常識と非常識……。さまざまなボーダーが、アリ・アッバシ作品において重要なテーマとなっている。

イスラムの聖地で起きた娼婦連続殺人事件 ミソジニー社会の闇『聖地には蜘蛛が巣を張る』
イスラムの聖地で起きた娼婦連続殺人事件 ミソジニー社会の闇『聖地には蜘蛛が巣を張る』の画像5
撮影中のアリ・アッバシ監督

 ストックホルム国際映画祭では作品賞&主演男優賞を受賞し、アカデミー賞のデンマーク代表に選ばれるなど、国際的な評価の高い『聖地には蜘蛛が巣を張る』だが、イランでは公開される可能性はまずないだろう。祖国イランの暗部を暴き出してしまったアリ・アッバシ監督の今後も気になる。

アッバシ「中東ではトルコだけ唯一配給が決まっているようですが、イランも含めてイスラム圏での本作の公開は難しいでしょう。でも、すでにイランでは海賊版が出回っており、観たいと思っている人は簡単に観ることはできる状況なんです(苦笑)。先日、イラン出身の友人と話したんです。イランに帰国することはできても、一度入国するともう出国はできないだろうなと。イランで実際に起きた事件を本作では描いていますが、おそらくイランの人たちはこの作品をイラン映画だとは思わないはずです。イラン当局の検閲を受けてない作品はイラン映画ではないし、女性の身体を映したイラン映画はこれまでにありませんでしたから」

 イラン映画の巨匠アッバス・キアロスタミ監督は晩年はイランを離れ、高梨臨がデート嬢を演じた『ライク・サムワン・イン・ラブ』(12)を日本で撮り、最後はパリで客死を遂げた。『オフサイド・ガールズ』(06)や『人生タクシー』(15)で知られるジャファル・パナヒ監督は、反体制的な映画を撮ったという理由からイランの刑務所に2022年から収監されている。今後のアリ・アッバシ監督は故郷の喪失者として、映画を撮り続けることになりそうだ。

アッバシ「故郷を失うことはつらいけれど、歴史を振り返ってみると、表現活動の自由を求めて亡命した作家たちは多かったわけです。僕は故郷を失ったことをデメリットだとは考えず、メリットだと思うようにしています。祖国を失った人間だからこそ描ける作品があるはずです。本作もそう。イランから距離を置いた、アウトサイダーとしての視点から描いた物語に仕上げています。国境というボーダーに囚われることなく、今後も自由に映画を撮り続けていくつもりです」

 故郷の喪失という大きな代償によって、アリ・アッバシ監督は『聖地には蜘蛛が巣を張る』を完成させた。これまでのイラン映画が描くことのなかった、リアルなイラン社会がこの映画には映し出されている。イランの司法制度の在り方に言及したクライマックスまで、しっかりと見届けてほしい。

『聖地には蜘蛛が巣を張る』
監督/アリ・アッバシ 脚本/アリ・アッバシ、アフシン・カムラン・バフラミ
出演/メフディ・バジェスタニ、ザーラ・アミール・エブラヒミ、アラシュ・アシュティアニ、フォルザン・ジャムシドネジャド、アリス・ラヒミ、サラ・ファズィラット、スィナ・パルヴァネ、ニマ・アクバルプール、メスバフ・タレブ
配給/ギャガ +R15 4月14日(金)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷、TOHOシネマズシャンテほか全国ロードショー
©Profile Pictures / One Two Films
gaga.ne.jp/seichikumo

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