文庫版の発売とほぼ同時期に、中国経由でネパールを旅行した。そこでここでは、そのときの中国の印象をすこし書いてみたい。
最初にちょっとしたエピードを。
日本とネパールのあいだには直行便がないので、成都で乗り継いで昆明に行き、そこで1泊してカトマンドゥに向かうことにした。成都での乗り継ぎは6時間ほどあり、街まで行って用事を済ませることもできた。
昆明を訪れたのは10年ほど前なので、街の変貌を見るために都心のホテルに泊まることも考えたのだが、近年は渋滞がひどくなっているとのことなので空港近くのトランジットホテルを利用することにした。
調べてみるとホテルはたくさんあるものの、どこも2つ星か3つ星で、そのなかでいちばんよさそうなところを選んだ。空港との無料送迎、24時間のコンビニ、超絶辛い麺の朝食がついたなかなか快適なホテルだったのだが、朝起きると、両腕の肘から上の部分と両腿の内側に大量の虫刺されの跡ができていた。ノミかダニ、南京虫のせいだろうが、不思議なことにまったく痒くないのだ。
ここからは私の想像だが、虫の生存戦略からすれば、刺しても自覚症状がない方がずっと有利だ。朝まで気づかれることなく、好きなだけ血を吸うことができるのだから。このようにして中国の虫は、抗体反応を起こさないよう進化したのではないだろうか。
日本のメディアでは「中国経済の減速」の報道が喧しいが、実際にはどうなのだろう。
成都を最後に訪れたのは2012年12月なので5年ほど前になる。そのときは地下鉄1号線が開通し、2号線の一部が動いていた。今回驚いたのは、その地下鉄が10号線までできていたことだ。
その代わり道路は渋滞し、流しのタクシーはまったくつかまらなくなった。外資系ホテルがあったのでそこのドアマンに訊いてみると、タクシーは配車アプリで呼ばなくてはならないのだという。それもかなり時間がかかるといわれ、昆明便の搭乗に間に合わないのではないかと慌てたが、「地下鉄で行けばいいんだよ」と教えてもらった。中心部からは2度乗り換えが必要だが30分ほどで、大きな荷物がなければ車よりずっと便利だ。
日本の都市では大阪の地下鉄が9路線で、成都はそれに匹敵する。1.5路線から10路線になるのにわずか5年だから、発展のスピードはやはりすさまじい。
そのわりに変化が見えにくいのは、日本のように地上駅を中心にそれぞれの街がつくられていくようになっていないからだろう。
これは、新興国で電話の有線網より先に無線ネットワークが広がるのに似ている。
もうひとつ驚いたのは、無料のVPN(仮想私設網)がまったくつながらなくなっていたことだ。中国では情報統制のためGoogle、Twitter、Facebook、Lineなどが利用できないことはよく知られているが、この障壁(グレートファイアウォール)は海外のサーバーを経由することで回避できる。これがVPNで、昨年9月に深センと南寧を訪れたときはなんの問題もなくアクセスできたが、今回は全滅だった。
無料のVPNでは、ホームページに掲示されている海外サーバーのIPアドレスを指定して接続する。中国からはVPNサイトのホームページは見られないので一覧をプリントアウトしていくのだが、これが見逃されていたのは外国人しか使わないからだろう。だがいまは、公開されている海外サーバーのIPアドレスをすべてつぶしているようだ。
有料のVPNサービス(こちらはIPアドレスが公開されていない)はまだ使えるようだが、中国に駐在する外国人ビジネスマンの利用が中心で、1カ月単位の長期契約がほとんどだ。今回のようなトランジットではあきらめるしかないのだろう。
VPNが使えなくてもネットにはつながるので、Gmailがダメでもメールサーバーに直接アクセスすればメールの送受信は可能だ。困ったのは検索で、GoogleがブロックされているのでこれまではYahoo!の検索を使っていたのだが、今回はこれもブロックされていた。
近年はテロ対策で、空港での入国の際に指紋をとられることが多くなった。インドでは右手と左手のすべての指紋をとられるが、世界でもっとも監視社会化が進んでいる中国ではこんな面倒な手続きは不要だ。
だがこれは中国政府が寛容というわけではなく、指紋認証に興味がないからのようだ。その代わりに導入されたのが顔認証で、中国全土に6億台の監視カメラを設置し、個人情報と連動させて、誰がいつどこでなにをしているかを瞬時に確認できる「天網工程」と呼ばれる監視システムを構築しようとしている。そのためか入国審査の際も、ずっと顔にカメラが向けられたままだ。
考えてみれば、指紋認証は犯罪などの事件が起きてからでないと役に立たない。それに対して顔認証なら、不審者や容疑者が行動を起こす前から追尾できる。どちらが監視に適しているかは明らかだろう。
中国の警備は厳しく、空港はもちろん地下鉄の駅でも、構内に入る前に荷物を金属探知機に通さなくてはならない。ところが昆明の空港では、この手続きが省略されていた。
その代わり空港に入るときは、警備員の指示に従って20人ずつくらいかたまって待っていなくてはならない。だからといって一人ひとりをチェックするわけではなく、30秒ほどで入場できるので、なんのためにこんなことをするのかわからなかったのだが、いま思うと「天網工程」がすでに稼働していて、監視カメラで撮影した顔を不審者のデータベースと照合していたのかもしれない。
考えすぎだと思われるかもしれないが、塚越健司氏(拓殖大学非常勤講師)のYahoo!個人の記事「中国、「社会信用度」の低い国民の鉄道・航空機利用を制限へ」によると、中国政府は2018年5月1日から社会信用の低い国民に対し、高速鉄道や航空機の利用を最長1年間禁止する処置を始めるという。今年2月には、警察官が人工知能を搭載したグラス(眼鏡)を着用し、車のナンバーと運転手の画像を政府のブラックリストと照合し、一致した場合は警告を発するシステムも稼働したという。
以前述べたように、アリババは「芝麻信用」という信用情報管理システムを導入し、利用者を点数化している。 民間企業の信用情報と政府の顔認証システムが合体すれば、公安当局は不審者の住所・氏名だけでなくスマホ決済の利用履歴や銀行の口座残高まで瞬時に把握できるようになるかもしれない。
[参考記事]
●IT先進国・中国で進む恐怖の情報管理社会の近未来
中国旅行で外国人の私が不便を感じるのは、Gmailでメールを見たり、旅の感想をTweetしたり、Google Mapで場所を確認したいと思うからだ。だが「ふつう」の中国人は、同じサービスがすべて中国企業によって提供されているのだから、なにが不便かすらわからないだろう。
監視社会の恐ろしいところは、「ふつう」に暮らしているだけなら、自分が監視されていることに気づかないことだ。中国政府が進める「超監視社会」が完成したとしても、ひとびとの暮らしや街の風景はなにも変わらない。
近年では、社会や制度も「進化」すると論じられるようになった。虫が人間を刺しても痒くないように進化したのと同じように、監視システムもひとびとが監視に気づかないよう「進化」しているのかもしれない。
いずれにせよ、中国はますます異形の未来社会に近づいているようだ。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)など。最新刊は『橘玲の中国私論』の改訂文庫本(新潮文庫)が好評発売中。
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